どうして貴方は、こんな場所にいるんですか?
「ここからは僕一人で行くよ」
奥へ、奥へと進み、底へ底へと降りていく。
ようやく辿り着いた最深部には、長い歳月に耐えかねて朽ち果てた大扉が、不気味に口を開けていた。
静まり返った坑道は、まるで世界そのものが息を止めたかのようで、生命の気配を微塵も感じさせない。
ここまで来る間、僕たちの中で言葉を発する者は誰一人としていなかった。
「そんなの駄目に決まってるでしょ!」
すかさずカレンが噛み付く。
だけど、それを静かに制した。
「聞いてくれ。もしも揺り籠の勇者が、問答無用で周囲を眠らせてくるような人だったら、僕たちは近づいた瞬間に全滅だ。だから、まずは僕一人で行く」
カレンは不満げに頬を膨らませたけれど、それ以上の反論はしてこなかった。
僕の言葉の正しさを、頭では理解してくれたんだろう。
「……それが、最善かもしれませんわね。私たちが行けば、それこそ余計に事を荒立ててしまいますもの」
ギンカが、納得した様子で小さく顎を引いた。
「五分。五分だけですわ。それを一秒でも過ぎれば、異常事態とみなし、私たちが突入します」
「それと、何があっても、絶っっっ対に悪魔の力に頼らないこと! やばいと思ったら、すぐに大きい声を出すこと!」
「ああ。大声を出すのなら、僕の得意分野だからね」
二人に背を向け、大扉に手を掛ける。
ギチギチと軋む重い音が、静寂の中でひどく耳障りに響いた。
扉の隙間からは、足元を微かに照らす程度の光が漏れている。
人がいる。確かに、この奥に。
「行ってくる」
見送られながら、一歩。内側へと踏み込んだ。
その瞬間、鼻腔を突いたのは――えぐり取るような、強烈に不快な臭いだった。
それは淀み、留まり、沈殿した、濃密な人間の『生の臭い』。
奥へ進むほどに、その重苦しい気配は密度を増していく。
壁にかけられた微かな明かりを頼りに進んで行くと、小さな人影が見えた。
地べたに座り込んだ、小柄な女性。
間違いない。彼女こそが――。
「お待ちしておりました。お若い勇者様」
“揺り籠ノ勇者”エリシア。
金色の長髪に、白い礼服。
かつては神聖であっただろうその姿は、今や煤け、土に汚れ、見る影もなくボロボロだった。
だけど、彼女が浮かべる微笑みだけは、薄暗い坑道の中で奇妙なほどに清らかで。
「感謝いたします。レドさんに、本当の安らぎを与えてくださったこと」
彼女の膝には、一人の男性が安らかな顔で横たわっていた。
エリシアは慈しみ深い視線を注ぎながら、その頭を優しく、何度も撫で続けている。
「……どうして、そのことを?」
「此の身は、産まれた時から人の魂の在り様が見えるのです。レドさんの魂は、光の届かない深い海の底から、明るい光の元へ向かいました」
彼女の視線が、僕の胸へと真っ直ぐに移る。
まるで、受け継いだ魂の在処を指し示すように。
「それに、もしもの時の為にと、あの方が置いて行ってくださった盾が……先ほど、音を立てて粉々に砕け散ったのです」
彼女の傍らには、役目を終えたかのように錆びた金属の破片が散らばっていた。
「あなたはここに、何かを求めて来られたのでしょう? ですがここに、あなたの求めるものはありません」
「どうして……どうして貴方は、こんな場所にいるんですか?」
気がつけば、僕は自分の要件よりも先に、その疑問を口にしていた。
暗くて、淀んでいて、ひどく不潔な場所。
聖女と謳われる彼女の美しさは、この掃き溜めのような空間にはあまりにも不釣り合いだった。
「どんな人にも、心から安らげる場所が必要なのです。誰にも邪魔されず、生まれたての赤子のように、無垢な心で眠れる場所が」
「どうしてそこまで――……」
言葉が続かなかった。
暗くて、汚くて、臭くて。
そんな場所に身を捧げ、ボロボロの服を纏ってまで、なぜ見ず知らずの人々に尽くすのか。
「それがわたくしの“使命”だからです。安らぎの力を持って生まれた、此の身の宿業」
この人は、一体何を言っているんだ。
稀有な力があるから、自分という存在を磨り潰して、他人のために供物になるというのか。
力とは呪いだ。運命を縛り、捻じ曲げる――レドさんの言葉が脳裏をよぎる。
「……レドさんがあなたに、『解放したかった』と、そう伝えてほしいって言っていました」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「最後の瞬間まで、わたくしのことを想ってくれたこと。とても嬉しく、光栄に思います。……ですが、それは不要です。此の身に、この力が宿る限りは」
彼女の微笑みには、一分の隙も、一点の曇りもなかった。
その完璧すぎる自己犠牲の姿が、かえって僕の胸の奥に、激しい苛立ちを募らせた。
こんなの間違っている。勇者だからって、聖女だからって、こんな風に消費されていいはずがない。
「……どうしてあなたは、もっとやりたいように、自由に生きなかったんですか。 元いた場所では難しくても、この島でならそれができたはずだ……! レドさんと湖で遊んだり、山に登って景色を眺めて、空気の澄んだ、満天の星空の下で眠ることだって……できたはずなのに!」
自分でも、おかしなことを言っている自覚はあった。
無法地帯であることをいいことに、好き勝手に暴れる勇者たちを「異常者」と蔑んでいたくせに、今度は「好きに生きろ」なんて。
だけど、あまりにも報われない彼女の姿が、見ていられなかったんだ。
こんな薄暗い地底の奥で、ただボロボロになって死を待つだけなんて、悲しすぎる。
「できません」
「……僕はあなたを解放できる、解放すると言ったら?」
「……勇者様。少しだけ落ち着いて、周りをよく見ていただけますか?」
「周りを? 一体何が――……」
彼女の言葉に促され、薄暗さに慣れてきた目で、周囲の闇をよく見回した。
途端、背筋にぞっとするような悪寒が走り、息が止まった。
そこにあったのは、あまりにも異常な光景だった。
静かに横たわる、勇者たちの姿。
一人や二人じゃない。十を越える勇者たちが、安らぎに堕ち、静かな寝息を立てていた。
先ほどから鼻を突いていた、あの生臭い沈殿した臭い。
それは、活動を完全に停止した人間たちが吐き出す、淀んだ呼吸の塊だったのだ。
「此の身が解放されれば、どうなりますか? 彼らは皆、凄惨な戦いに怯え、傷つき、心が折れてしまった弱者です」
「…………」
「わたくしがいなくなれば、彼らは一斉に目を覚ますでしょう。傷の痛みを思い出し、死への恐怖に錯乱し、再び血を流し合う地獄へ放り出される……。それが、あなたの言う『解放』ですか?」
初めて彼女と目が合った。
その瞳は、奈落の底にあっても、なお美しく澄んでいて。
「それとも、勇者様。あなたがわたくしの代わりになっていただけますか? “使命”もろとも、すべてを引き継いで下さいますか?」
その瞳の強さを前に、僕は何も言えなかった。
何も言い返せなかった。
よく見れば、彼女の目の下辺りには青黒い痣があり、白い礼服の所々には血が滲んでいる。
ここにいる彼らが眠りに堕ちる前、恐怖で錯乱し、彼女に乱暴を働いた痕跡。
それでもなお、彼女は彼らを抱きしめ、眠りを与え続けている。
「レドさんは、あなたに、ここに来た要件を聞いたでしょう? 私からお願いしてあったのです。弱さ故に逃げて来た者がいるなら、わたくしの元へ案内していただくように、と」
彼女は再び視線を落とし、膝の上で眠る男の髪を、愛おしそうにそっと撫でた。
「お引き取りください、勇者様。……わたくしが見ることのできなかった『夢』を、ほんの一時でも見せてくださったあなたのことを。“揺り籠ノ勇者”エリシアは、生涯忘れることはないでしょう」
視界が、急激に歪んだ。
堰を切ったように、涙が溢れて止まらなくなる。
自由を説き、救済を口にした自分の言葉が、どれほど浅はかで、どれほど独りよがりだったか。
彼女の持つ『本物の強さ』を前に、僕にできることなんて、何一つとしてなかった。
「……ごめんなさい。ご、めんな、さい……ッ」
「最後に一つだけ……微力ながら、わたくしに視えるものをお伝えします。――この島の、さらに深く。ここよりもずっと地下に、巨大な『蠢き』を感じます。それは、日に日にその拍動を強め、膨れ上がっています……」
「……蠢き?」
「このお話が僅かでも、これからを歩むあなたの力になることを願っています」
僕は強く拳を握り、溢れる涙を、お尻を拭いていない方の手で強引に拭った。
ぼやける視界を必死に凝らし、彼女の姿を、その最期まで見届けるために。
「……ありがとうございます。……さようなら。エリシアさん」
「ええ。さようなら。勇敢で、優しい勇者様」
扉が、静かに閉まる。
軋む音と共に、あの淀んだ生の臭いと、優しい安息が、闇の向こうへと消えていった。
僕たちは坑道を後にした。
もう振り返らず、ただ前だけを見て、確かな足取りで歩いていく。
――その後。
僕たちが地上へと辿り着いた頃。
あの優しくも悲しい地底の『揺り籠』は、迫りくる冷たい嵐に、静かに呑み込まれていったのだった。




