強い体になりたい。
第35話です。
前回、腹を蹴られたお兄ちゃん。
今回は、レドの過去から。
――強い体になりたい。
ただ、それだけだった。
ただそれだけを願うことが、果たしてどれほど深い罪だったのだろうか。
薄暗い子供部屋のベッドの上。
窓ガラスの向こうからは、泥にまみれた同年代の子供たちの、元気な声が響いてくる。
「カッカッカッ! 俺は竜狩りゼナだ! 災厄の竜め、今日が貴様の命日だぞ!」
「ギャー! やられたー!」
木剣をがちがちと激しく振るう、その勇ましい少年たちの声。
壁一枚隔てたすぐそこに聞こえる。
けれど、私にとっては、世界の果てから聞こえてくるかのように、遥かに遠い響きだった。
生まれつき、私の両足は一度として大地を踏みしめたことがない。
ただの一度も、自分の意志で地面を蹴り、走ったことがなかった。
だが、領地を治める裕福な家庭に産まれたお陰で、何一つ不自由はなかった。
飢えることもなければ、冬の寒さに凍えることもない。
ただ、ベッドの上から移り変わる外の景色を眺め。
使用人が運んでくる豪奢な料理を口に運び。
何のためかもわからない、高尚な学問を学ぶ。
そして、夜が来れば静かに眠りにつく。
毎日が、その繰り返し。
私は、眠るのが酷く嫌いだった。
眠ってしまえば、何も感じることなく、何を成すこともない。
ただ無為に、また一日が、一週間が、一年が終わってしまうからだ。
生きているのか死んでいるのかもわからない、透明な空白のような時間。
そんな日々が、一体何年過ぎただろうか。
身体の成長とともに空虚さだけが肥大化していく、激しい雨が窓を叩きつける、ある嵐の夜のことだった。
ピシャァァァンッ!!
天を割るような激しい雷鳴の轟きに混じって、どこからか、聞いたこともない不気味な声が鼓膜の奥へ滑り込んできた。
『――汝の望みを、聞こう』
それは身の内側から直接響くような、あるいは地底の底から呻き狂うような、恐ろしい囁きだった。
おぞましい気配。けれど、私は恐怖よりも先に、魂の叫びを口にしていた。
「強い体になりたい」
迷いはなかった。
どうせ質の悪い夢の中の話だと思っていたからだ。
そう望めば、せめてこの夢の続きくらいは、少しは愉快な冒険譚になるだろう。
ただ、その程度の軽い気持ちだった。
『いいだろう。……賽は、投げられた』
声が満足げに響いた瞬間、私の意識は、底知れぬ漆黒の暗闇へと墜ちていった。
次に目を覚ましたのは、身体を激しく揺さぶる地響きと、世界そのものが粉々に砕け散るような、凄まじい轟音の中だった。
「熱い……?」
いや、熱くない。
私の視界を埋め尽くしていたのは、真っ赤に踊り狂う炎の海だった。
生まれ育った屋敷の天井は崩れ落ち、その隙間からは、冷ややかな星々がこちらを覗き見ている。
――“災厄の竜”。
昼間、子供たちがごっこ遊びで標的にしていたあの本物の怪物が、突如として現れ、私の家を、街を、国を、一夜にして蹂慢し、滅ぼしたのだ。
周囲には、かつて私に優しくしてくれた人々の、無惨な死体が転がっている。
なのに、不思議と悲しみは湧いてこなかった。
「……月が、妙に大きく感じるな」
それだけだった。
それだけが、この燃え盛る地獄において、私の心に生じた唯一の感想だった。
自分の視界が、以前よりも遥かに高い位置にあることに気づく。
肌を激しく灼くはずの炎の熱量も、衣服を揺らすはずの夜風の冷たさも、何一つ、私の皮膚には伝わってこない。
不審に思い、自らの手を見やった。
そこにあったのは、白く細い人間の肉でもなければ、柔らかな皮膚でもなかった。
美しく磨かれた、重厚な鋼鉄の籠手。
それは、屋敷の広間に代々飾られていた、我が家で最も古く、「歴史」そのものである大鎧だった。
「……慣れるまで苦労しそうだな」
それだけだった。
それだけが、望み通りに誰よりも「強い体」になったことに対して、私の心に生じた想いだった。
無残に転がっていた、我が家の家宝である大剣を拾い上げる。
両手を使っても持ち上げることすら叶わなかったその鉄塊は、今の私の体には、驚くほどしっくりと、軽々と馴染んだ。
私は、願った通りの強い体を得た。
その代償として、一体何を失ったのだろうか。
人間の肉体。血の通った感情。他者と分かち合う温もり。そして、愛する家族。
そのどれもが、最初からなかったように思う。
胸の奥に手を当てても、そこには心臓の鼓動などない。
空っぽの鎧に、空っぽの魂。
この暗黒の内側を、満たすことができるだろうか。
第35話お読みいただきありがとうございました。
次回、レド戦決着。
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