私には、まだ遠い――。
「ここにいたのが私ではなかったら、君たちは死んでいた」
「「「……仰る通りです」」」
狭い這い穴をどうにか潜り抜け、仄暗い広場へと転がり出た僕たち。
ひんやりとした冷たさが満ちる、広大な地下空間。
そこに、その『鎧』は佇んでいた。
「坑道というのは音がよく響く。君たちが思っている以上に遠くまで聞こえていると思った方がいい。敵対する者が待ち伏せしていれば、穴から顔を出した瞬間に首を撥ねられていたぞ」
「「「……気が緩んでました」」」
「仲良しなのは結構だが、時と場所を弁えるべきだ」
「「「……反省してます」」」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。
お尻を撫ただの、顔面を押し付けただのという、ついさっきまでの痴話喧嘩がどれほど命知らずだったかを突きつけられ、僕は小さくなるしかない。カレンもギンカも、今度ばかりはバツが悪そうに視線を泳がせている。
けれど、説教の気まずさ以上に、目の前の男から放たれるプレッシャーが肉体を圧迫していた。
かつては銀白の輝きを放っていたであろう、厚い鋼の重装大鎧。
だが、その表面は剥き出しの鉄地が黒ずんだ錆と、無数の古びた傷跡に埋め尽くされている。
男がわずかに身じろぎするたび、ギチ、ギチリ……と、錆びた鉄と鉄が擦れ合う、重苦しい金属音が坑道に響いた。
そして、その大きな手が握りしめているのは、やはり赤黒い錆に覆われた大剣だ。
切れ味を失ったそれは、敵を「斬る」のではなく「叩き潰す」ための巨大な鉄塊と化している。
全身の錆と、鉄の匂い。
それは、彼がどれほどの時間、血の雨の中で戦い続けてきたのかを無言で物語っていた。
間違いない。彼こそが“鉄棺ノ勇者”レド。
歴史に名を刻む、伝説の勇者の一人だ。
「……歳を取ると、どうにも説教臭くなっていけないな。本題に入ろう」
レドは頭部を完全に覆う兜をわずかに動かした。
兜の奥は深い闇に閉ざされ、その瞳すら見えない。
「鉄棺」という二つ名が示す通り、冷たい鋼の内側にある本心を、欠片も覗き見ることができなかった。ただ、そこに厳然たる鉄の壁が存在している。
「君たちは何故ここに来た。その様子では、『殺し合いに来た』というわけでもないだろう」
これは怪我の功名と言うべきか。
僕たちのあまりの緊張感のなさから、敵意がないことを汲み取ってくれたらしい。
「あんた、随分優しいんだね。あたしたちみたいな“侵入者”に対してさ」
カレンが剣を地面に突いたまま、皮肉めいた口調で低く吐き捨てた。
その瞳の奥には、彼に対する強い警戒の炎がパチパチと燻っている。
「私も気になっていましたの。鉄棺の勇者。あなたからは、殺気はおろか、私たちの本意を探る気すらも感じ取れません。すべての物事を、事務的に、淡々と済ませようとしているかのような……奇妙な空虚さを感じますわ」
隣に立つギンカの視線は、より鋭く、冷徹だった。
獣人としての鋭い本能で、レドの全身から発せられる「異質さ」を見抜こうとしている。
「二人とも! レドさんは僕たちの話を聴こうとしてくれてるんだから――」
「いいさ。私を知っているなら話は早い。先に君たちの疑問に答えよう」
レドは大剣を杖代わりに、重苦しい鋼鉄の溜息を吐き出した。
その声は、驚くほど平坦で、乾いていた。
「面倒だからだよ。戦うのも、相手を疑うのも、殺すのも」
「……面倒、ですか?」
あまりに淡白な言葉。
けれど、その響きは決して軽いものではなかった。
あまりにも多くの血を流し、すべてを失ってきた者だけが至る――果てしない、底なしの疲弊が、その短い言葉に詰められているように感じられた。
「さあ。次は君たちの番だ。。――ここに、君たちは何をしに来た」
兜の奥の闇が、真っ直ぐに僕を射抜く。
この人は、少なくとも、さっき僕たちをハメようとした異常者とは違う。
真摯に向き合い、僕の考えを伝えれば、きっと――。
「……お話をしに来ました。鉄棺の勇者レドさんと、揺り籠の勇者エリシアさんがここにいると聞いて、交渉に来たんです」
「そうか」
レドは、短くそれだけ呟いた。
僕は希望を感じ、一歩前へ踏み出そうとした。
しかし。
「では出て行ってくれ。その道を真っ直ぐ、道なりに進めば外へ出られる」
「え……!? ちょっと待ってください! まだ何も話して――」
「話をする気も、聞く気もない。例えそれが、『この島から脱出できる』という類の、話であったとしてもだ」
レドの言葉は静かだが、鋼鉄の壁のように断固としていた。
「どういうことですの? このような暗く不潔な地下の底で、ただ魔王のエリア縮小を待って、無様に最後を迎えてもいいと?」
ギンカが、納得がいかないと言わんばかりに、獣耳を鋭く立たせてレドを問い詰める。
「そう言っている。私と、“彼女”のことを気に掛ける必要はない。今後ここを出て、君たちの脅威となることも断じてない。次の縮小辺りで終わるはずだ」
レドは、至って平坦な声で、エリシアとの「心中」を宣言した。
自らの死を、当然の前提として受け入れている。
「……意味わかんない。あんた、頭おかしいんじゃないの? まさかあんたも、この島を“楽園”とでも思ってんの?」
カレンが、不快感を隠そうともせずレドへ向け、問いかける。
「――楽園……。ある意味ではそうかもしれないな。ここには、私の求めるものが全てあるのだから」
レドの声は、錆びた鎖が擦れ合うような、ひどく寂しい響きがした。それが、求めるものを手にした者の声か?
「この坑道は、心折れた弱者の吹き溜まりだ。君たちのような、未だ輝かしい希望を持つ強者には、なんの用もない場所だよ」
ギチ、とレドが、再び大剣を握り直す。
「これが最後だ。今すぐに出て行ってくれ。もし、君たちの心が折れ、安らぎを欲した時――その時は歓迎しよう」
「……なら最後に、一つだけ聞いて下さい! 僕は“継承ノ勇者”です。力を相手から譲り受け、相手は力を失う。……そうすれば魔王に『失格』とみなされ、故郷へ帰ることができるんです!」
僕は、必死にレドの兜の闇を見つめた。
「あなたも、揺り籠の勇者も、僕に力を託してくれれば、こんな暗い地底で心中なんてしなくていい! 元の世界に戻って、普通の人間として生きることができるんです! ……それでも、気は変わりませんか……?」
頼む。この手を取ってくれ。僕たちは本来、殺し合う必要なんてないはずだ。
レドは、長い沈黙の後、兜をわずかに傾けた。
「……継承、か」
「はい!」
「なるほど。気が変わった」
「本当ですか!! だったらッ――」
僕の顔に、パッと明るい希望の笑みが浮かんだ。
伝わったんだ、とそう確信した。
――次の、瞬間。
――ドッ!!
「がっ……は……っ!」
あまりにも重く、鈍い衝撃。凶悪な鋼鉄の質量が僕の腹部のド真ん中へと叩き込まれた。
何が起きたのか、脳の処理が完全に追いつかない。
ただ、視界が恐ろしい速度で反転し、僕は広場の隅の岩壁に向かって、弾丸のように吹き飛ばされていた。
――ドシャァァァァンッッッ!!!
「おにぃッ!!!」
「お兄様ぁッ!!!」
カレンとギンカの、絶叫が、暗い坑道全体に激しく木霊する。
地面へと無様に転がり、僕は猛烈に咳き込んだ。肺の中の空気がすべて強制的に押し出されてしまっていて、呼吸がまったくできない。
腹部が、まるで鉄塊で押し潰されたかのようにジンジンと熱く、激痛が全身を駆け抜ける。
レドの、鋼鉄の鎧による前蹴り。
それが、油断しきっていた僕の身体を、一撃で広場の隅まで蹴り飛ばしたのだ。
「……ふざけるなよ、このボロカス鎧っ!!!!!」
カレンの、大地を揺るがすほどの怒声が、灼熱の爆風となって広場に吹き荒れた。
彼女の全身から、これまでに見たこともないほどの紅蓮の焔が、一気に噴き出す。
その瞳は、完全に理性を失った捕食者のそれへと変貌し、手にある剣は、激しい怒りの熱量によって一瞬で赤熱化していた。
レドは、腹部を押さえてのたうち回る僕には目もくれず、その巨大な錆びた大剣を、嫌な金属音を立ててゆっくりとカレンとギンカ、二人に向き直る。
兜の奥の闇は、未だ不気味なほどに静まり返っている。
「君たちを排除する。一身上の都合で、彼を野放しにしておくわけにはいかなくなってしまったのでな」
淡々と。
どこまでも冷酷に、まるで鉄そのもののようなトーンで、レドは告げた。
そこには、僕を蹴り飛ばしたことに対する愉悦も、興奮も、何の感情の熱も存在しない。
ただ、目の前の障害物を処理する、という絶対的な意思だけが、静かに充満している。
「……よくも、やってくれましたわね。私の大切なお兄様を。その気なら、こちらも一切の容赦はいたしませんわ」
ギンカの周囲の空気が、一瞬にして白に凍り付く。
彼女の美しい銀髪が冷気でなびき、白銀の和剣からは、蒼い凍結の霧が溢れ出た。
カレンの灼熱の焔と、ギンカの絶対零度の氷。
妹たちの怒りが、限界を突破してレドへと一点に集中する。
レドはただ静かに、重い足音を響かせて一歩前へと踏み出した。
「――揺り籠の底へ、君たちを招こう」
その足音は、もはや錆びた金属の軋みなどではなく。
死神が鳴らす、弔鐘の響きそのものだった。
「私には、まだ遠い――」




