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……拭きましたわね。

第30話です。


前回、用を足していたお兄ちゃん。


今回は、高度な情報戦から。

「お兄! どうしたの!? 何があったの!? お尻拭いたら、血がべっちょり付いてたの!?」


「心配いりませんわお兄様! さあ、今すぐズボンを脱いでくださいまし!」


「違う! 違うから! 確かにちょっとヒリヒリしてるけど、血は一滴も出てないから!!」


 茂みの陰で慌てて衣服を整えていた僕は、必死になって二人の突撃を制止した。


 僕の悲鳴を聞きつけた二人が、物凄い勢いで茂みに駆け込んできたのだ。


「そう、大変なんだ! 紙を探して、何気なくポケットに手を入れたら、この島の地図が入ってたんだ!」


「ええっ!? お兄、凄い! 一体どこで手に入れたの!?」


 カレンが、その瞳をキラキラと輝かせて僕を見つめる。


「……それが、正直に言うと、いつの間にポケットに入っていたのか、僕自身も全く覚えがないんだ。でも! これさえあれば、僕たちは他の勇者たちに対して、とんでもなく巨大な情報アドバンテージを得られることになる!」


 きっとこれは、一生懸命に頑張る僕の姿を、どこかで神様が見ていてくれて、こっそり授けてくれた奇跡の贈り物に違いない。

 僕は一瞬にして勝利を確信し、鼻息を荒くして、これでもかと胸を張ってみせた。


「…………」


 興奮して大喜びする僕と、そんな僕を「さすがお兄!」と輝かしい目で見つめるカレン。


 だが、なぜかギンカ一人だけは、ひどく冷ややかな、それこそ「見てはいけない残念な生き物」を目の当たりにしてしまったかのような表情で、僕たちを無言で見つめていた。

 その耳も、心なしか不機嫌そうに伏せられている。


「それで!? その地図はどこ!? あたしも見たい!」


「……それが、ごめんカレン。ちょっと、カレンには見せられないんだ。“とある”のっぴきならない事情のせいで、この地図は、世界で僕一人にしか見ることができないんだよ」


「とある事情? それって、誰かが仕掛けた凶悪な呪いや罠の類?」


「まぁ……本質的には、そんなところだね」


 カレンの追及を、僕は笑顔で受け流した。


 何はともあれ、この地図を手に入れたことにより、これからの僕たちの生存確率は格段に跳ね上がるはずだ。

 安全な拠点候補の目星を付けたり、敵から逃れるための完璧な逃走経路の確保。あるいは、僕たちにとって有利な地形に強い勇者を誘い込んでのトラップ戦闘など、戦術の可能性が無限に広がる。


「……はぁ。お兄様」


 僕が脳内で完璧な軍師のシミュレーションを広げていると、ギンカが美しく整った眉間に指先を当て、ひどく疲れたような仕草で深い溜息をついた。


 なるほど。

 きっとギンカには、この極限状態において「詳細な地図を手に入れた」ということの戦術的な優位性や、その偉大さが理解できていないに違いない。

 僕とカレンの情報の“速度”に脳の処理が追いついていないが故に、必死になって知恵を絞り、フリーズしかけているのだろう。


 心配いらないよ。僕はお兄ちゃんだ。

 できないことや、わからないことがあれば、存分に僕を頼ればいい。


「大丈夫だよ、ギンカ」


 ここからは、僕の圧倒的な頭脳で二人を確実な勝利へと導いてみせよう。

 そう心に固く誓いながら、僕は道に迷って不安に震える幼子を安心させるかのように、優しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべて――ギンカの細い肩へとそっと触れようとした。


 その、瞬間。


「……拭きましたわね」


 触れようとした手は空中で凍り付く。ドクン、と心臓は大きく跳ね上がり、冷たい汗がじわりと噴き出した。


「拭いた? お兄、何を? 何で拭いたの?」


 カレンは、何も知らない純粋無垢な子鹿のような瞳をパチくりとさせて、僕たちの顔を交互に見つめている。


 ダメだ。この子の無垢だけは、残酷な真実から守り抜かなければならない。

 なのに、声の出し方を完全に忘れてしまったかのように、僕の喉からはヒューヒューと虚しい空気が漏れるばかりで、言葉にならない。


「そもそも、ですわ。お兄様」


 ギンカの冷徹な声が、夜の静寂を静かに切り裂いた。

 嫌に落ち着いた、まるで、何度言っても言葉を理解しない聞き分けのない幼児に対して、必死に感情を抑えて言い聞かせるかのような、底冷えのするトーン。


「その地図は、“全員”のポケットに最初から支給されていますわよ」


「ええええええええぇぇぇぇぇーーーーーーっっ!?!?!?」


 ギンカは、自らの衣服の胸元から、僕が持っているものとまったく同じ、けれどシワ一つない綺麗な「地図」をすっと取り出しながら、無慈悲な現実を突きつけてきた。


 それは神の贈り物でも何でもなく、ただの初期装備だった。


「嘘だ! だって、あたしそんなの持ってないもん!」


「持っていますわよ。だらしない服のポケットの奥を、もう一度よく探してごらんなさいな」


「そんなわけ……あ、あれ? ……あっ!」


 カレンは慌てて自分の身体中のポケットをガサゴソと探り――そして、何か小さな塊を指先で見つけた。


「あった! これだ!」


 カレンが誇らしげに頭上へと掲げたそれは、地図としての形状を一切留めていない、真っ黒に焦げちぎれた、もはや『すす』と呼ぶべき哀れな炭の残骸だった。


 パサリ……と音を立てて崩壊し、虚しく夜風に攫われて消えていく。


「「…………」」


 僕とカレンは、無言で視線を交わした。

 外見や能力は違えど、やはり僕たちは血の繋がった兄妹。その思考のシンクロ率は、こういう無駄な方向にだけ恐ろしいほど高かった。


 お互いにこれ以上ないほど深く、力強く頷き合う。


「……いや、これさ、お兄。どう考えても、紙の地図なんていう熱に弱い素材を採用した、魔王側の炎使いに対する配慮が全く足りてないのが最大の原因だよね?」


「確かにその通りだね、カレン。それに『ポケットに地図が入っています』って、魔王側から事前にきちんとアナウンスされていれば、こんな悲劇は起きなかった。今回の件は、完全に魔王の怠慢であって、僕たち兄妹には一ミリの非もないよ」


「そうだよね! 流石お兄、すっごく良いこと言う! 全部、全部あの魔王が悪いんだ!!」


 僕とカレンが、ガシッと固い握手を交わし、美しい兄妹の都合のいい絆を確かめ合っていた、まさにその時だった。


「こんのッ……!! クソバカ兄妹ィィィーーーーッッッ!!!」


「「うわあああぁぁぁーーーーッッッ!!!」」


 ギンカの、怒りと、呆れが限界を突破した大絶叫とともに、僕たちの足元の地面から、巨大な氷の津波が爆発的に噴き出した。


 狂ったように怒り狂う銀髪の獣人から逃れるため、全力の「戦略的撤退」を開始するのだった。

第30話お読みいただきありがとうございました。


次回、伝説の勇者。


活動の、もの凄い励みになりますので、高評価やブックマーク、アドバイスや感想を是非是非よろしくお願いします。 

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