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あむっ。もぐもぐ、もぐもぐ。

第26話です。


前回、眠っていたお兄ちゃん。


今回は、昔の夢から。

「……近づかないで」


 それは、酷く懐かしい夢だった。


 まだ僕たちが、勇者などという大層な肩書きを背負わされるよりもずっと前のこと。

 僕が彼女と初めて出会った、幼い日の記憶だ。


「なんで? どうして近づいちゃいけないの?」


「私は“獣”だから。薄汚くて、凶暴な、忌むべき獣の血が混ざっているから。あなた方“人間”とは、最初から住む世界が違いますの」


 目の前にいたのは、ひどく痩せこけ、継ぎ接ぎだらけのボロボロの服を纏った一人の少女だった。


 その頭頂部には、周囲から向けられる悪意を警戒するように、ピコピコと細かく震える獣の耳。

 他者を徹底的に拒絶するその冷たい瞳は、それまで彼女がどれほどの飢えと、理不尽な差別に耐え続けてきたかを無言で物語っていた。


 そこにあるのは、触れた者すべてを凍りつかせるような、絶対的な孤独。


 けれど、幼かった僕は拒絶の壁を前にしても、一歩も退かなかった。

 むしろ、満面の笑みを浮かべて、胸を張って言い返したのだ。


「同じだ!」


「……は?」


「だって、僕のお父さんも“人でなし”の“ケダモノ”だって、皆が言ってた!」


 ……いま振り返れば、当時の僕なりに「訳ありの僕たちなら、きっと分かり合えるはずだ」と、精一杯の親愛を伝えたかったのだと思う。


 けれど、言葉の選び方が致命的なまでに壊滅していた。

 少女は呆気に取られたように目を点にする。


「だから、同じ!」


「……さっさと失せなさい」


 少女は冷たく吐き捨てると、僕に背を向けて歩き出そうとした。


 今思えば、それは彼女なりの不器用な優しさだったのかもしれない。

 忌み嫌われる獣人の自分と一緒にいるところを誰かに見られれば、僕にまで妙な噂が立てられたり、石を投げられたりするかもしれないと、子供ながらに配慮してくれたのだろう。


「……おにぃ……帰ろ? あの子、なんか怖いよ……」


 僕のシャツの裾を小さな手でギュッと握りしめ、背中に隠れるようにしているのは幼い日のカレンだ。

 この頃の彼女は風が吹けば消えてしまいそうなほど内気で、極度の人見知りだった。


 ――ぐぅぅぅぅぅ~~~~。


 その時、静まり返った路地裏に、ひどく気の抜ける音が響き渡った。


 音の主は、背を向けたばかりの少女。

 彼女の細いお腹が、空腹を訴えて盛大に鳴り響いたのだ。


 少女は一瞬で耳まで真っ赤に染め、さらに頑なに背中を丸める。


「ねぇ、お腹減ってるの?」


「関係ありませんわ! いいから早くどこかへ行って!」


「そうだ! 良いこと思いついた!」


 僕は手提げ袋の中から、さっき買ったばかりの、まだほんのりと温かいパンを取り出した。

 小麦の香ばしい匂いが、ふわリと周囲に広がる。

 少女の獣耳が、ピクリと不随意に反応したのを見逃さなかった。


「そんな安い施しなど、私は絶対に受けませ――」


「あむっ。もぐもぐ、もぐもぐ」


「……は?」


 あろうことか、僕はそのお腹を空かせた女の子の目の前で、パンを豪快に頬張りだしたのだ。


 少女の冷たかった瞳が、驚きと困惑、そして言葉を失った迷いと怒りに大きく見開かれる。


 きっと、彼女の人生の中で初めての経験だったのだろう。

 パンを差し出されるかと思いきや、見せつけるように自分で食い始めたのだから。


「お父さんが言ってたんだ。『腹を空かせてる奴の前で食う飯が一番うめぇ』って。だから、試しにやってみた」


「……そうですか。それで、お父様の言う通り美味しいですか?」


 少女は軽蔑の段階を通り越し、もはや哀れみの目、あるいは完全に頭の狂った人間を見る目で、僕をじっと見つめていた。


「変わらないかな。……だから、はい」


 僕は残りのパンを半分に手元で千切ると、戸惑う彼女の小さな手のひらに無理やり押し付けた。

 そして、自分の手元に残った分をさらに分けて、後ろの妹に手渡す。


「お母さんは『皆で食べるご飯が一番うまい』って言ってたんだ。だから手伝って」


「……随分と、個性的で両極端なご両親をお持ちですのね」


 すっかり毒気を抜かれてしまったのか、少女は迷いながらも、手のひらに乗せられたパンを見つめていた。

 空腹と、僕の圧倒的なデリカシーのなさに、ついに敗北を認めたのかもしれない。


「あむっ……もぐもぐ、もぐもぐ……」


「……美味しい?」


 彼女が僕の反応を伺うように、上目遣いで尋ねてくる。

 僕は口の中のパンをゴクリと飲み込み、満面の笑みでこう答えたのだ。


「やっぱり、一人で落ち着いて食べるのが一番美味しいや!」


「……ふっ、ふふふっ! あはははは! あなた、本当に変わっていますわ! 今まで出会った誰よりも、おかしな人ですわねっ! ふふっ」


 最初は淑やかに口元を隠していた少女だったが、次第に堪えきれないといった様子で、声を上げて笑い出した。


 その瞬間、彼女を包んでいた氷の壁が、音を立てて瓦解していくのが分かった。


 これが、僕と“蒼月ノ勇者”ギンカとの、最悪で、最高の出会い。


 ……いま思えば、当時の僕のデリカシーの欠片もない言動には、我ながら頭を抱えたくなる。

 けれど、デリカシーもなければロマンもない、幼さ故の無邪気な微熱。

 凍りついた彼女の心を溶かすには、その不器用すぎる体温だけで、十分に足りていたのだ。


 遠い昔の、セピア色に輝く、僕の大切な幼い記憶――。



「おだ――な寝顔――わ。お――」


 遠くで、誰かの声が聞こえてきた。

 心地よい微睡が霧散していき、僕の意識は急速に覚醒へと向かい始める。


 ただ、まだ身体が重くて目が開かない。

 どうやら僕は、あの翠玉の勇者との死闘(?)を終えたあと、あまりの疲労からそのまま眠りこけてしまっていたらしい。


 横たわる僕のすぐ側から、誰かの気配を感じる。


「……ぐっすりと眠っていますし、これなら……ちょっとくらいならバレない、ですわよね?」


 なんだ……?

 一体、何を企んでいるんだ……?


 耳に届くその声は、冷ややかだが熱を帯び、どこか甘ったるい。

 絶対に、カレンの声ではない。

 だとしたら、今僕のすぐ隣にいるのは――。


「ふふ。お兄様の芳醇な脇の香りを……」


 なんだってぇぇぇぇッ!!!


 早く目覚めろ、僕の肉体! 今すぐ瞼を押し上げるんだ!

 このままでは、取り返しのつかない形で尊厳破壊されてしまう!


「クンクン、クン、クンクン……。……はぁぁ……濃厚。やっぱりお兄様の匂いはたまりませんわ……」


 やめてくれぇぇぇ! なんという羞恥プレイだ! なんなら全裸を見られるよりも精神的ダメージがデカい!!


 僕が心の中で奮闘している間も、彼女のクンカクンカは止まらない。

 それどころか、すっかり欲望の火が点いてしまったようで、彼女の呼吸はさらに荒くなっていく。


「ふぅ。まだ起きる気配はなさそうですわね。……でしたら、あちらの高貴な香りも……」


 あちらってどちら!? もしかして、そちら!?


 エスカレートしていく彼女の飽くなき探求を阻むため、僕は必死になって、岩のように重い瞼を強引に押し上げた。


「う、ううーん……っ!」


 僕はわざとらしく大きな声を出し、たった今目が覚めましたよ、という雰囲気を醸し出しながら、ぐいっと大きく両手を上に伸ばして伸びをした。


 その時。


 僕の手のひらに、驚くほど柔らかく、それでいて凄まじい弾力を持った、大きくて温かな“ナニカ”が触れた。


 ……これは、なんだ?

 僕のデータにない圧倒的な質量。


「あんっ……。お兄様ったら。目覚めて早々大胆ですのね」


 お兄様。

 僕のことをそんな風に呼ぶ存在は、世界にただ一人しかいない。


「……ギン、カ……?」


「ええ。お兄様の世界で一番大切な妹。ギンカですわ」


 ギンカは、僕が突然目を覚ましたことにも、自らの胸を思い切り触れていることにもまったく動じる様子を見せず、熱っぽく潤んだ瞳で僕を見下ろしていた。


 掌から伝わる、圧倒的なボリューム。

 理性を取り戻した僕は、大慌てでその手を引っ込めようとした。


 しかし、それよりも早く、彼女の白く細い指先が、僕の手首をガチッと鋼鉄の錠前のような力で拘束した。


「……っ!? なっ!」


「そんなに慌てて手を引き抜くなんて、ひどいですわ、お兄様。……もっとよく確かめて下さいませ?」


 ギンカは聖母のような微笑を絶やさないまま、逃げようとする僕の右手を、自らの衣服の胸元へとさらに強く押し当てた。


 ドクドクと、彼女の胸の奥で激しく波打つ、熱い鼓動が掌を通じて直接伝わってくる。

 逃げ場を失った僕の指先は、彼女の豊かな膨らみへと、さらに深く沈み込んでいった。


「言葉ではなく、胸で誰かを判断するなんて。……お兄様も、年相応の男の子ですのね」


「ち、ちちち違う! 誤解だ! 僕はそんな、性欲に支配された猿じゃない! 声と、呼び方と、あとは、その……柔らかさと、大きさで、脳が勝手に個体を識別しただけであって! って、違う!!」


 僕は彼女の柔らかな膝枕から跳ね起きるようにして距離を取ろうとした。


 ――その、瞬間だった。


「お兄、起きてる? ちょっと遠くまで行って、薪をたくさん拾ってきたよ。あと、ワンチャン食べられそうなキノコも――」


 カレンの声が、あまりにも絶妙すぎるタイミングで、背後から響き渡った。


 刹那。

 周囲の温度が数度跳ね上がった。

 パチ、パチチ、と空間を構成する空気の分子が、熱量に耐えかねて爆ぜる音が鳴る。


「あ……」


 恐る恐る振り返った僕の視線の先。

 そこには、両手いっぱいに抱えた薪とキノコを抱えたまま、文字通り凍りついたような表情で立ち尽くす、実の妹の姿があった。


 正確に言うなら、カレンの視線は僕の顔など見ていなかった。

 彼女の2つの瞳は、僕の右手が深く、深く沈み込んでいる、ギンカの豊満な胸元へと、ピンポイントで釘付けになっている。


「…………おにぃ。いま、何、してるの?」


 カレンの手から、両手いっぱいに抱えられていた薪とキノコが、パラパラと力なく地面に落ちて転がった。


「あら、おかえりなさい。トカゲさん」


 ギンカは僕の手首を掴んで胸に押し当てたまま、勝ち誇ったような、氷のように冷たくも、どこか艶やかな笑みをカレンへと向けた。


「お兄様が目を覚まして早々、あまりにも情熱的に私の身体を求めてくるものですから」


「ち、違うんだカレン! これは不可抗力っていうか、ギンカが僕の手を掴んで、自分の胸に――!」


「……ちょっと黙ってて、お兄」


 カレンの、地獄の底から響いてくるような低い、冷徹な声に、今度は僕の背筋が完全に凍りついた。


 彼女の足元から、シュルシュルと紅蓮の炎が、明確な殺意を持った蛇のように地を這い出す。

 地面に落ちたばかりの薪やキノコたちは、その熱気に触れた瞬間、一瞬にして消え炭となり、灰へと変わっていった。


「そこ、どいて、お兄。……お兄に色目を使う発情期のクソ犬、今すぐ跡形もなく灰滅させるから」


「野蛮ですのね。弱いなんとかほどよく吠えると言いますが、どうなのでしょうね」


 ギンカはさらに僕の手を自分の胸へと強く押し付け、見せつけるように、僕の肩口へとその銀髪の頭を預けてすり寄ってきた。


「ひ……っ! ひえぇぇぇぇぇ……っ!!」


 カレンの背後に怒りのエネルギーが具現化した、巨大な火竜の幻影がゆらゆらと揺らめき始める。


 最強の火力を誇る実妹。

 最恐の冷気を操る幼馴染。


 魔王との世界を懸けた最終決戦よりも、遥かに生存確率が低そうな、地獄の修羅場が幕を開けた。

第26話お読みいただきありがとうございました。


次回、紅と蒼。


活動の、もの凄い励みになりますので、高評価やブックマーク、アドバイスや感想を是非是非よろしくお願いします。 

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