お兄ちゃんキックっ!!
第22話です。
前回、さっぱり綺麗になったお兄ちゃん。
今回は、湖に潜む罠から。
「カレン――ッ!!」
引き裂かれるような僕の叫びが、エメラルドグリーンの湖面に虚しく響き渡った。
バシャッ、という短い水音。
それだけだった。
つい一秒前まで、すぐ隣で不満げに唇を尖らせていたはずの妹の姿が、どこにもない。
視界にあるのは、激しく揺れ動く水面と、そこから静かに広がっていく不気味な波紋だけ。
カレンの気配が、この空間から完全に消失していた。
「おやおや、竜とはこれほどまでに傲慢な生き物なのですね。まさか、汚れを落とすためとはいえ、自慢の爪も牙も、すべて陸に置いていってしまうとは」
頭上から、クスクスと愉しげな笑い声が降ってくる。
見上げれば、翠玉の勇者が糸のような細目を三日月型に歪め、岸辺の草むらを見下ろしていた。
そこには、カレンが先ほど脱ぎ捨てた上着や、彼女の最大の武器である剣が、無防備に転がっている。
つまり、カレンは――丸腰の、完全な無防備状態で、底の知れない水中へと引きずり込まれたのだ。
「カレン……っ! カレン!!」
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり、全身の血の気が一気に引いていくのが分かった。
パニックに陥りそうになる頭を必死に叱咤し、僕は翠玉の勇者に掴まれた右手を強引に引き剥がそうとする。
だが、抜けない。
男の細身の身体からは到底想像もつかない、まるで大蛇に締め付けられているかのような、圧倒的な質量の力が僕の手首を固定していた。
どれだけ力を込めても、ビクともしない。
それどころか、じわじわと骨が軋むような鈍い痛みが走り、冷たい皮膚の感触が僕の焦燥感をさらに煽る。
「無駄ですよ、お兄さん。彼女は我々の崇高な計画には必要ありません。ですので、水中に深く潜伏させておいた“我々”によって、このまま静かに始末させていただきます」
「……っ! こいつ、水の中に、何か仕込んでいたのか……っ!?」
水面を見つめる僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
エメラルドグリーンに澄んでいたはずの湖の底が、じわじわと黒く、濁った影で埋め尽くされていく。
それは、何か巨大な、ドロドロとした質量を持ったナニカの群れだった。
最初から、この湖自体がこいつの仕掛けた巨大な蜘蛛の巣だったんだ。
水浴びをさせて油断を誘い、武器を奪い、確実に仕留めるための、完璧なまでの殺人トラップ。
カレンが、あの冷たい水の底で、無数の化け物に囲まれている姿が脳裏をよぎる。
怒りと恐怖で、僕の身体がガタガタと震え出した。
許せない。
僕を騙したことも、僕の無力さにつけ込んだことも。
何より――僕の、世界で一番大切な妹に、その汚い手を伸ばしたことが。
「カレンに……カレンに傷一つでも付けてみろ……ッ! 僕が、お前を絶対に許さない……!!」
「素晴らしい……! 実に素晴らしい響きだ! その純粋な怒り、引き裂かれるような悲鳴、そして絶望!それらすべてが、我々の旋律に極上の深みを与えるのですよ……!」
翠玉の勇者は、恍惚とした表情で天を仰ぎ、完全に自身の世界へと陶酔していた。
細目の隙間から、狂気的な光が漏れ出ている。
こいつの頭は、とっくにイカれている。
僕は自由な方の左手で、ギュッと拳を作った。
非力な僕の拳じゃ、こいつに大したダメージは与えられないかもしれない。
それでも、この胡散臭い笑顔を叩き割ってやらないと、気が済まなかった。
体中の全エネルギーを左拳に集中させ、その顔面目掛けて思い切り振り上げた――その時だった。
――ゴォォォォォォォォォォッッッッ!!!!
背後で、鼓膜を震わせる凄まじい水撃音が轟いた。
それは単に水が跳ね上がった音ではない。まるで、湖の底で巨大な爆弾が炸裂したかのような、圧倒的な破壊の響き。
直後、凄まじい熱波が、爆風となって僕たちの背中を襲う。
冷涼だったはずの湖畔の空気が、一瞬にして肌を焦がすような灼熱のサウナへと変貌した。
大量の白い水蒸気が一気に噴き出し、周囲の視界をホワイトアウトさせていく。
「な、何事ですか……ッ!?」
翠玉の勇者が、驚愕のあまりその細目を大きく見開いた。
僕の手首を掴む万力のような力が、ほんの少しだけ緩む。
立ち込める真っ白な湯気の向こう側。
そこに、ユラリ、と一筋の紅い影が揺らめいた。
「……お兄に、気安くちょっかい掛けてんじゃないわよ。ドブネズミが」
低く、冷たく、そして圧倒的な威圧感を孕んだ少女の声。
水蒸気が風に流され、その中心から姿を現したのは、全身から陽炎のような高熱を発するカレンだった。
彼女が立つ周囲の水面は、ジュウジュウと凄まじい音を立てて沸騰し、文字通り一瞬で蒸発し続けている。
濡れた黒髪から滴る水滴すら、地面に落ちる前に気化していく。
その瞳は、暗闇の中でらんらんと輝く、本物の「竜」のそれだった。
岸辺に置かれた剣など、彼女には必要なかったのだ。
装備がなかろうが、丸腰だろうが、カレンという存在そのものが、何者をも焼き尽くす最強の災害なのだから。
「カレン……! 無事だったんだね……っ!」
「お兄ーっ! あたしという世界一可愛い最愛の妹がありながら、いつまでそいつと手を握り合ってんのよおぉっ!!」
さっきまでの、世界を滅ぼしそうな竜の威厳はどこへ行ったのか。
カレンは僕の姿を見るや否や、嫉妬に狂った妹の顔に戻って絶叫した。
その視線は、僕の手首を掴んでいる翠玉の勇者の手に、ピンポイントで殺意を注いでいる。
「浮気みたいに言うな! 僕にそっちの趣味は一ミリもない! こいつの力が滅茶苦茶強くて、どうしても解けないんだよ!」
「全く……。不協和音を奏でるだけのクソメスめ。せっかく水底の“我々”で、綺麗に噛み砕いて消化してやろうと思ったのですがね。本当に、メスというのは野蛮でいけない」
一瞬の驚きから立ち直った翠玉の勇者が、チッと忌々しげに舌打ちをする。
その表情から余裕は消え失せていたが、それでも慌てる様子はなく、再び冷酷な笑みを浮かべた。
――ボコボコボコボコッ!!!
その瞬間、カレンの背後の湖面が、異常な勢いで泡立ち始めた。
沸騰しているのではない。水の底から、何かが大量に湧き出してきているのだ。
現れたのは、ドロドロと蕩けた人間の形をした、泥人形のようなナニカ。
顔パーツはなく、ただ大雑把に人の形を模した、水と泥の塊。それが数十、数百という単位で、湖面を埋め尽くすように這い上がってくる。
「っ! カレン、後ろ! 変なのがいっぱい出てきた!」
「ふん、こんな薄汚い泥団子ッ!」
カレンはただ不快そうに吐き捨てた。
彼女はそのまま、重力を無視したような跳躍で、空中へと高く舞い上がる。
太陽の光を背に受けたカレンの姿は、まるで戦場に舞い降りた美しき炎の女神のようだった。
空中。カレンは大きく胸を膨らませ、限界まで空気を吸い込む。
口の隙間から、網膜を焼くような紅蓮の火の粉が溢れ出た。
「『竜炎』――」
カレンの小さな唇が開かれる。
「――『灰滅』ーーッッ!!!」
放たれたのは、湖の半分を覆い尽くさんばかりの、超広範囲への破壊的な火炎放射。
紅蓮の炎の濁流が、凄まじい轟音と共に湖面を激しく舐め回していく。
押し寄せていた無数の泥人形たちは、カレンの炎に触れた瞬間、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、一瞬で沸騰し、水蒸気へと変わり、跡形もなく消滅していった。
凄まじい熱量によって、湖の水位が目に見えて数メートル単位で減少していく。
周囲の木々が熱風でパチパチと弾け、静かだった楽園は、瞬く間に全てを焼き払う灼熱の地獄へとその姿を変えた。
「なっ……なんという、凄まじい破壊の旋律……! これが、紅蓮の、『竜』の力ですか……」
目の前で繰り広げられた、規格外の暴力を前にして、翠玉の勇者が完全に硬直した。
その糸のような細目が驚愕に染まり、僕の手首を掴んでいた力が、明確に緩む。
――今だ。
カレンが作ってくれた、最大の勝機。
僕のような弱い勇者でも、こいつの意表を突くことくらいはできる!
「喰らえっ! お兄ちゃんキックっ!!」
僕は残された全ての力を右足に込め、翠玉の勇者の、股下の“最も脆い急所”を目掛けて、思い切り足を振り抜いた。
――ベキョッ、という。
人間の部位からしてはいけないような、生々しい破壊の感触が、僕の足の裏を通じて脳へと伝わってきた。
完璧な、クリーンヒット。
「ひギゅっっっっ!?!?!?!?」
翠玉の勇者から、詩人としてのプライドを全てドブに捨てたような、裏返った情けない悲鳴が上がった。
男の顔が、見たこともないほど真っ青に、そして苦悶に歪む。
完全に手首の拘束が解けた。
僕は引き抜いた右手を強く握り締め、よろめく男から距離を取るように、全速力でカレンの元へと走った。
「ナイスお兄ーっ! 今の蹴り、芸術点満点だよ!」
「褒めるのは後だ! とにかくここから離れよう!」
着地したカレンが、僕の元へと駆け寄ってくる。
だが、急所を潰されたはずの翠玉の勇者は、まだ諦めていなかった。
「おの、れ……っ! よくも、我々の聖なる領域を……っ!」
男は股間を押さえ、顔を血の涙が出るんじゃないかというほど真っ赤に染めながら、再び僕を捕らえるために、狂ったように長い手を伸ばしてきた。
その指先は、すでに人間のものではなく、半ば水のようにドロドロと溶け始めている。
しかし、その手が僕に届くことはなかった。
「汚い手で、お兄に触るな!」
カレンの動きは、文字通り疾風のようだった。
彼女は地面に落ちていた自身の剣を、走る勢いのままに拾い上げ、流れるような一閃で、翠玉の勇者が伸ばしてきた右腕をスッパリと斬り落としたのだ。
ドサッ、と重い音を立てて、男の腕が地面に転がる。
「やっぱり糸目は最初から信じちゃダメだったんだ。嫌味だし、ねちっこいし、お兄をたぶらかそうとするし。……さっさと灰滅しとけば良かった」
カレンは剣を低く構え、冷酷極まりない瞳で翠玉の勇者を見据えた。
その刃には、早くも次の炎が纏い始めている。
「カレン、待った! 一回ストップ!」
僕は慌ててカレンの前に立ち、彼女の細い肩を掴んで制止した。
これ以上、こいつを無駄に刺激して殺し合うのは、僕たちの本意ではない。
視線を翠玉の勇者へと戻す。
驚いたことに、彼は斬り落とされた右腕の傷口を抑えようともしていなかった。
傷口からは血が流れる代わりに、透明な水がドクドクと溢れ出ている。
そして男は、俯いたまま、うわ言のようにブツブツと何かを呟き始めていた。
その姿には、先ほどの優雅な詩人の面影はどこにもなく、ただただ不気味な不協和音だけを周囲に撒き散らしている。
「……翠玉の勇者。あなたに話したいことがあるんだ」
僕はカレンの温かい手をもう一度しっかりと握り直し、狂気に狂う男に向けて、真っ直ぐに声を掛けた。
第22話お読みいただきありがとうございました。
次回、翠玉ノ勇者。
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