表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
21/32

一緒なら、たとえどんな地獄だって、楽園だよ。

第21話です。


前回、翠玉の勇者に着いていくことにしたお兄ちゃん。


今回は、臭いお話から。

「僕たちって、言うほど臭いか……?」


 歩きながら、僕は自分の服の袖をつまみ、クンクンと鼻を近づけてみた。


 確かに、何日もまともに風呂に入っていないから汗の匂いはする。

 泥にまみれて逃げ回っていたから、埃っぽい土の匂いも混ざっている。

 けれど、鼻が曲がるほどの激臭というわけではない……はずだ。


「ううん、お兄は全然臭くないよ。糸目は悪い奴しかいないから、大袈裟に言ってるだけ。だからお兄、絶対に油断しないでね」


「聞こえていますよ、お二人とも。いいですか、臭いです。糸目の人間に悪人が多いかどうかについては歴史的・文学的な議論の余地がありますが、今現在、お二人が周囲に深刻な異臭を放っている点だけは、紛れもない客観的事実です」


 前を歩く翠玉の勇者が、振り返りもせずに即答した。

 背中を向けたままだというのに、こちらのひそひそ話を完璧に拾い上げている。

 糸目だから視力を犠牲に聴覚がいいのか?


「クンクン……。うーん、やっぱり自分だとよくわかんないな。カレン、本当に臭くない?」


「むしろ、あたしにとっては世界で一番安心する匂いだよ? お兄の匂いを染み込ませたクッションとかあったら、あたし毎日それ抱きしめて眠れるもん」


「それはそれで兄として別の危機感を覚えるんだけど……」


 カレンの重すぎる愛を受け流していると、前方を歩く緑色の背中が、大袈裟に肩をすくめてみせた。


「慈悲深き女神は、人を造る際、あえてそのように設計なされたのですよ。自らの体臭には、どうしても気付けないように。……さて、なぜ女神様がそんな回りくどい奇跡を施したか、理由がわかりますか?」


 歩みを止めないまま、翠玉の勇者が唐突に問いかけてくる。

 相変わらずの、人を食ったような詩人風の口調。

 僕は歩調を合わせながら、必死に頭を回転させた。


「ええと……自分の存在っていうのは、他者の反応を通じて初めて知り得るものだから、とか? お互いに足りない部分を補い合って、関わり合うためにあえてそうした……みたいな」


 どうだろうか。

 僕なりに、勇者っぽい、それらしくて模範的な回答を捻り出してみたつもりだ。


 翠玉の勇者は、一瞬だけ足を緩め、感心したようにどこからか取り出した琴の弦を爪先で弾いた。

 澄んだ美しい音が静かな森に響く。


「素晴らしい。実に詩的で、ロマンティシズムに溢れた美しい響きです」


「へへ、それほどでも――」


「ですが、大ハズレです。正解は『自らの悪臭に四六時中嘔吐き、苦しみ悶えることがないように』です。女神様の、最低限の生存本能への慈悲というやつですね」


「……要するに、僕たちがドブみたいに臭いって言いたいわけ?」


 なんという回りくどい言い回しだろうか。

 直接「お前ら臭いぞ」と言われるのも傷つくが、より一層腹立たしい。


「ほらね、やっぱり糸目って嫌味な奴しかいない。お兄、こんな奴の言うことを真に受けてたら、苦しい想いするだけだからね」


「聞こえていますよ。そして今現在、鼻腔を苦しめられているのは我々です」


「僕たちだって臭くなりたくてなった訳じゃないのに……」


「ひどい偏見に心を痛めているのも我々です。我々とて、こんなことを言いたくて言っている訳ではありません。被害者ムーブはお止めなさい」


「よしよし、可哀想なお兄。酷いこと言われて、心から血が流れてる」


「心から血を流している暇があるのなら、体に水を流してください。我々の鼻が限界を迎える前に」


 カレンに慰められている間も、翠玉の勇者はなおも歩みを進める。


 やがて、生い茂る木々の向こうから、サラサラという心地よい水のせせらぎが聞こえてきた。

 それと同時に空気が少しずつ湿り気を帯びて潤っていくのがわかる。


「さあ、着きましたよ」


 翠玉の勇者が足を止め、劇場の役者のように両手を大きく広げてみせた。


 遮るように生い茂っていた緑のカーテンを潜り抜けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


 木々が開けたその中心。

 なだらかな岩肌から小さな滝が優しく流れ落ちる、息を呑むほど美しい湖があった。

 澄み切った水面はエメラルドグリーンに透き通り、木漏れ日を反射してキラキラと宝石のように輝いている。


 戦いと血の匂いしかしないこの島において、そこは文字通りの奇跡――神聖な静寂に包まれた場所だった。


「水だ……! 本物の水だ……!」


「なかなかの穴場でしてね。幸いにも、先ほどの嵐に呑まれずに済みました。おそらく、次の縮小には耐えられないでしょうが……束の間のオアシスとしては、十分でしょう」


「じゃあ、用は済んだでしょ。さっさとどこかへ消えて」


 カレンは一歩前に出ると、一切の感情を排した冷徹な声で言い放った。


 しかし、翠玉の勇者はその冷たい視線を浴びても、なおも三日月のような細い目を崩さない。


「おやおや、冷たいですね。ですが、お身体を清めていただいた後で、しっかりと“お話”を聞いていただく約束です」


 男の声音はどこまでも穏やかだった。

 けれど、その微笑の裏側、糸のように細い目の奥に、ゾッとするような、底の知れない狂気の片鱗が見えた気がした。


「……『取引』、でしたよね」


 僕はカレンの肩をそっと叩き、一歩前に出て男と視線を合わせた。


「ええ。流石はお兄様。ですが、交渉を始めるのはその汚れたお身体を綺麗にしてからにしましょう。耳の裏から、爪の先まで、しっかりと、ね。……では、我々は周囲を見張っておきますので、どうかご安心を」


 翠玉の勇者はそれだけ言うと、優雅に一礼し、本当に、気配があっさりと音もなく林の奥へと姿を消した。


「……カレン、どう思う?」


 男の気配が完全に遠ざかったのを確認してから、僕はカレンに問いかけた。

 翠玉の勇者。やはり、どうにも胡散臭さが拭えない。

 水場に飢えていた僕たちに対して、あまりにもタイミングが良すぎるし、条件を後回しにするのも不気味だ。


「どうでもいいよ、あんな奴」


 カレンは僕の手をギュッと引き、迷いのない足取りで湖の岸辺へと踏み出した。

 そして、水際に着くなり、身につけていた上着や護具を躊躇なく解除し始める。


「どうでもいいって……罠かもしれないんだぞ!? 僕たちが無防備になったところを狙う、卑劣な作戦かもしれない!」


「関係ないよ。あいつがどんな罠を仕掛けてこようが、あたしを誰だと思ってるの? お兄に指一本でも触れようとした瞬間に、魂ごと灰にしてあげるから」


 カレンはあっという間に薄手のインナー姿になると、白い素足をバシャバシャと水の中へ滑り込ませた。


「んーーーっ! 冷たくて、すっごく気持ちいい! ほら、お兄も早く入って!」


「……はぁ。もう、わかったよ」


 彼女の圧倒的な自信に押し切られる形で、僕は諦めて苦笑した。

 上着を脱ぎ捨て、靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げてゆっくりと湖へと足を踏み入れる。


 瞬間。

 ひんやりとした涼涼な感覚が、じわりと肌を包み込んだ。

 汗と埃にまみれ、熱を持っていた身体から、不快な熱気がスッと引いていくのがリアルに伝わってくる。

「あんっ……! 冷たいっ……!」


「あはは! 何その女の子みたいな反応! ――それっ!」


 カレンがいたずらっぽく笑ったかと思うと、両手で水を掬い、僕の顔面に向けて勢いよく弾いた。


「ぶはっ!? な、何をするんだカレン!」


「あははは! すっごい変な顔! 戦場なのに油断してるからだよ~?」


 顔を拭いながら目を開けると、そこにはこれ以上ないくらい無邪気に笑う妹の姿があった。


「この野郎……! お兄ちゃんをからかったな? お返しだ、それっ!」


「キャッ!? やったな~お兄!」


 僕も負けじと、手のひらで水面を叩いてカレンに水を掛け返す。

 水面に激しい波紋が広がり、冷たい水しぶきが僕たちの間でパッと舞い散る。

 きらきらと輝く木漏れ日の中で、カレンの鈴を転がすような楽しそうな笑い声が、静かな湖面に何度も優しく反響した。


 ただの、水遊びだ。

 けれど今の僕たちにとっては、何物にも代えがたい救いの時間だった。


「きゃははっ、冷たーい! ……でも、すっごく気持ちいいね」


 ひとしきり騒いだ後、カレンは濡れた黒髪を色っぽく手でかき上げ、とろんとした熱を帯びた瞳で僕を真っ直ぐに見つめてきた。


 水に濡れた彼女の白い肌は、太陽の光を受けて神秘的なほどに輝いている。

 薄手のインナーが水分を吸ってぴったりと肌に張り付き、少女から大人へと変わりつつある、しなやかで美しい身体のラインを露骨に露わにしていた。


 そのあまりにも無防備で、どこか妖艶な姿に、僕はドギマギとして思わず目を逸らしそうになる。


「ねぇ、お兄……」


 カレンがすっと、水面を揺らしながら距離を詰めてきた。

 波紋が僕の足元に伝わり、彼女の纏う甘い香りが、先ほどよりもずっと濃く鼻腔をくすぐる。

 気づけば、至近距離。カレンは僕の胸元に、その小さくて温かい手をそっと重ねた。


「あたしね、お兄と一緒なら、たとえどんな地獄だって、楽園だよ」


 湖面の煌めきよりも眩しく、そしてどこか狂おしいほどの親愛が詰まった笑顔。

 ドクン、と僕の胸が大きく跳ね上がった。

 ここが過酷な戦場であることを、一瞬、完全に忘れそうになる。


 カレンはさらに距離を詰め、僕たちの身体が遮るものなく重なり合った。

 濡れた衣服を通じて、彼女の柔らかな体温と、激しい心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。


 真っ直ぐに僕を見つめていたカレンの長い睫毛が、ゆっくりと伏せられ、瞳が閉じられた。

 少しだけ上を向いた、潤んだ桃色の唇が、僕の目の前にある。

 息が詰まるほどの静寂の中、僕は吸い込まれるように、その唇へと顔を近づけて――。


「お二人とも。綺麗に洗えましたか?」


 パッ!!! と、弾かれたように距離を取る。


 あまりの勢いに、僕は水中で思いっきり尻餅をつきそうになった。

 慌てて視線を向けた先――湖の岸辺には、いつの間にか戻ってきた翠玉の勇者が、完璧に計算されたような営業スマイルを携えて立っていた。


「あ、あああ、はいっ! 洗えました! それはもう、頭のてっぺんから足の先までピカピカに洗えましたともっ!!」


 僕は真っ赤になっているであろう顔を隠すように、大声で返事をした。

 完全に忘れていた。この胡散臭い男が見張りをしていたことを。

 というか、あと数秒戻ってくるのが遅ければ、実の妹ととんでもない一線を越えてしまうところだった。心臓がうるさいくらいに暴れている。


「……チッ。空気が読めない奴。一生どっかいってろっての」


 僕のすぐ横で、カレンが地獄の最下層から響いてくるようなドスの効いた声で毒づいていた。

 彼女の周囲の水面が、怒りの熱量で一瞬沸騰しかけて気泡を上げている。

 危ない、別の意味で命の危機だった。


「出、出よう、カレン。身体が冷えちゃうしね」


「……うん」


 カレンは不満げに唇を尖らせながらも、僕の後ろを付いて岸へと歩き出した。


 翠玉の勇者は、僕たちの様子を見て満足そうに深く頷くと、水際に立つ僕に向けて、優雅に右手を差し伸べてきた。

 引き上げてくれる、というジェスチャーなのだろう。


「うん、素晴らしい。もう酷い異臭はしませんね。実に清らかです」


「お陰様で。本当に生き返った気分ですよ」


 僕は引きつった愛想笑いを浮かべながら、彼の親切に応じるように、差し出されたその右手を取った。


 ガシッ、と。

 僕の手と、翠玉の勇者の手が重なる。


 その瞬間――。

 男の手のひらから、人間のものとは思えない、ねっとりとした不気味な冷気が僕の肌へと伝わってきた。

 それは先ほどの嵐の冷たさとは違う。まるで、死体に触れたかのような、生物としての温度が完全に欠落した冷たさ。


 ゾクリとした、本能的な悪寒が背筋を駆け上がる。

 僕が反射的に手を引き抜こうとした、その時だった。


「いいえ。あなたはこれから、真の意味で生まれ変わるのです。――我々と、一つになってね」


「……は?」


 次の瞬間、僕の後ろで、バシャッという水の爆ぜる音がした。

第21話お読みいただきありがとうございました。


次回、水の力。


活動の、もの凄い励みになりますので、高評価やブックマーク、アドバイスや感想を是非是非よろしくお願いします。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ