待っていてくださいね、お兄様。
第19話です。
前回、新たな決意なお兄ちゃん。
今回は、もう一人の妹目線から。
「クン……、クンクン。……クゥン? ――クンクンクンクンクンッ!」
夜の闇の中、冷たい苔の上に膝をつき、私は狂ったように鼻腔を鳴らした。
冷たい空気とどこぞより漂う血の匂い。そのすべてを押し退けて、私の鋭敏な嗅覚を優しく、激しく愛撫する一筋の気配があった。
脳髄を直接痺れさせるような、どこか懐かしく、そしてたまらなく愛おしい甘やかな芳香。
それは、孤独という名の氷に閉ざされていた私の心を一瞬で溶かし、秘めたる情熱に惑わせ、狂わせる、この世界で唯一無二の、至高の香り。
(間違いない……。絶対に、間違いありませんわ……!)
私の胸が、ドクドクと早鐘を打つ。
肺の奥までその香りを吸い込み、銀色の獣耳を歓喜に震わせる。
そこにいる。そう遠くない場所に、私のただ一人。最愛の――。
「おいおい。女の勇者がたった一人でこんな場所にいると思ったら……。いや、よく見りゃ一匹の『獣』じゃねぇか」
「ああ、本当だ。孤立した獣は、優しく手なずけるか、それとも徹底的に牙を折っておかなくちゃあな」
背後から下卑た声と共に、二つの足音が近付いてきた。
振り返るまでもない。品性の欠片もない、雑魚の勇者二人組だ。
こちらは今、大一番の真っ最中なのだ。
最愛のあの方との再会という至高の瞬間を前にして、有象無象に構っている暇など一秒たりともありはしないというのに。
「へっへ。なぁ、可愛い子犬ちゃん。ここは一つ、大人の取引といこうじゃねぇか。俺たちの仲間になるなら、悪いようにはしねぇよ。……人気の少ない島、肌寒い夜には互いに温め合う方が合理的だろ?」
「獣人は鼻が利くと言うしな。君が索敵担当として俺たちの犬になってくれれば、この殺し合いで圧倒的に優位に立てる、そして君の命も助かる。悪い話じゃないはずだ」
男たちの下卑た笑い声。
耳の奥を汚すような、見え透いた欺瞞の言葉。
そして、彼らがニヤニヤとだらしなく緩めた口元からは、胃袋をひっくり返したくなるような、吐き気を催す悪臭が漂っていた。
魂の腐り落ちた人間の臭い。不快極まりない。
“獣人”。
人間たちから見れば、私のような存在はただの『都合のいい獣』に過ぎないのだろう。幼い頃から、この程度の差別や侮蔑、理不尽な暴力なんて、吐いて捨てるほど経験してきた。
最初は泣き、次は怒り、やがて――私は、そのすべてに慣れてしまった。
心が感覚を失い、麻痺し、私の内面は遂に、何者も寄せ付けない冷徹な氷壁となって凍り付いたのだ。
故に。今更、この程度の安っぽい挑発で、私の心が怒りに燃えることなどあり得ない。
ただただ、私の世界が静まり返り、どこまでも冷えていくだけ。
「失せなさい、有象無象」
私は立ち上がり、冷たい風に銀色の髪をなびかせながら、静かに振り返った。
一切の感情を排した、絶対零度の視線を男たちへと向ける。
「私の爪と牙が、その腐りきった臓腑をまき散らす前に。今すぐ消え失せることですわ」
「何様のつもりだ。獣の分際で、舐めた口聞きやがって。……おい、計画変更だ。一瞬で楽には殺してやらねぇ。身体中の骨をへし折って、たっぷり弄び尽くした後に、泣き叫ばせて肉塊にしてやる!」
男たちの瞳に、ドロドロとした暗い欲望と、逆上した殺意が混じる。
私の全身に、まるで胸元を蛆虫が這い回るかのような、おぞましく不快な視線が絡みつく。
勇者、などと大層な二つ名を背負ってはいようとも、一皮剥けばただの人間。
「閉鎖空間内での、合法的な殺し合い」という極限状態に叩き込まれれば、理性という名のメッキなど一瞬で剥がれ落ち、その悍ましい本性を露わにする。
特に、目の前にいる二人のような、実力もない『雑魚』であれば尚のことだ。
彼らは今、強者の影に怯え、死の恐怖にガタガタと震える日々を過ごしているのだろう。その恐怖を覆い隠すために、自分より弱そうな者を見つけ、強者側に回ったつもりになって悦に浸っている哀れな生き物たちなのだ。
そう考えると、王と魔王が仕掛けたというこの狂った殺し合いも、私にとっては実に合理的で、好都合なものに思えてくる。
だって――二人のような、この世界に存在する価値すらない排泄物は、必ず淘汰されるのですから。
「舐めているのは、そちらの方ですわ。……本当に、愚かで救えませんわね」
私はふぅ、と冷たい息を吐き出した。
「自らと相手との、決定的な『格の差』すら計れない有象無象。私に組む意味などどこにありますの? その残念な頭を抱えて、世界の隅っこで膝を抱えていなさいな」
「交渉決裂、か。……残念、だなぁっ!」
男の一人が、腰の剣を引き抜き、地を蹴って突進してくる。
もう一人も、私の死角へと回り込もうと動く。
その、浅はかな跳躍の瞬間。
世界が色を変えた。
「――なんだ? 急に、霧が……。くっそ、見えねぇ! おい、どこだ!」
「寒い……っ、なんだよこれ……っ!?」
一瞬にして、戦場の空気が変質した。
男たちの突き出した刃が、空間を満たした冷気によって、中空でピキピキと白い霜を纏う。
彼らが吐き出した呼気は、白く染まるどころか、微細な氷の結晶となってその場でパラパラと地面に落ちた。
世界が、急速に白銀の静寂に包まれていく。
視界のすべてがホワイトアウトするほどの、圧倒的な絶対零度の濃霧。
ここはもう、人間の立ち入っていい場所ではない。
ここは――銀狼の、私の狩場。
「な、何も見えねぇ!? どこだ、どこにいやがる、あの女――」
男がパニックに陥り、見えない霧に向かって闇雲に剣を振り回す。
その背後へと、私は音もなく、摩擦を失った氷の床を滑るようにして一瞬で肉薄した。
狼の牙は、音を立てない。
無慈悲な絶対零度の刃は、神経さえも一瞬で凍結させるが故に、痛みすら与えない。
ただ、永遠という名の、美しい静寂を与えるだけ。
シャリィン――。
軽やかな、鈴の音のような氷結音が響く。
男の首は、鮮血の飛沫をただの一滴すら上げることなく、静かに、優しく、胴体との永遠の別れを告げた。
切断面は瞬時に凍りつき、まるで精巧なクリスタルのような輝きを放ちながら、雪原へと転がっていく。
「お、おま、え……。その、氷の力……。まさ、か、あの……“蒼月”……か……っ!?」
残されたもう一人の男が、恐怖で顔を痙攣させながら、ガチガチと歯を鳴らして絶望の声を漏らした。
島に集められた勇者の中でも、絶対的な上位に君臨する、最凶の怪物の一角。その名を聞いただけで、彼の心の芯まで凍りついたのが分かった。
もう、遅いですわ。
男の足元から、急速に蒼色の氷の花が咲き乱れるように広がっていく。
冷気は彼の脚を伝い、瞬く間に全身の細胞を、血液を、魂の形にいたるまでを支配していく。
戦場に、静寂の帳が優しく降ろされた。
数秒前まで、下劣な言葉で私を汚そうとしていた醜き肉塊は――。
今や、一切の汚れなき、美しい蒼氷の彫像となり、天上の月光を浴びてキラキラと儚く輝いていた。
「ふぅ……」
私は指先についた微かな冷気の残滓を、ふっと息を吹きかけて散らした。
周囲には、微かな氷が爆ぜる、美しく清らかな音だけが響いている。
「どうか、どうかご無事でいて下さい。……私の、ただ一人。この世界で最愛の――お兄様」
鼻腔の奥に、先ほどよりも少しだけ濃くなった『あの香り』を感じて、私の胸は再び狂おしいほどの歓喜で満たされる。
きゅっと胸元の防具を握り締め、私はもう一度、深く鼻を鳴らした。
残り香の主は、そう遠くない。
今、あなた様の大切な、世界で一番従順な妹――“蒼月ノ勇者”が、お迎えに参りますわ。
待っていてくださいね、お兄様。
第19話お読みいただきありがとうございました。
次回、水の重要性。
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