たまには、流されてみるのもいいかもよ?
第16話です。
前回、意思を引き継いだお兄ちゃん。
今回は、カレンの誘惑から。
ふわり、と。
脳髄の奥深くを直接とろけさせるような、甘く、どこか官能的な香りが鼻腔をくすぐった。それは熟した果実のようでもあり、少女特有の清らかな体温のようでもある、強烈な誘惑を孕んだ芳香だ。
重く、けれどひたすらに心地よい微睡みの海。意識の浮上を全力で拒みたくなるような、極上の温もりが僕の全身を包み込んでいる。背中に感じるのは、まるで王宮の賓客に用意されるかのような、天上の柔らかさを誇るベッドと、肌に吸い付くように滑らかな最高級シルクのシーツの感触。
「ねぇ、お兄。……いいでしょ?」
鼓膜を優しく震わせ、脳の芯に直接注ぎ込まれるような、甘くとろける吐息が耳元で弾けた。
驚いて視線を向けた先――そこにいたのは、艶やかな黒髪をシルクの枕に乱雑に散らしたカレンだった。
普段は火竜の意匠があしらわれた凛々しい戦闘衣をきっちりと着こなしている彼女が、今はどういうわけか、薄い純白のシーツ一枚だけを頼りなさげに身にまとっている。しかも、そのシーツは彼女の甘やかな身悶えに合わせて無防備に滑り落ちており、華奢な肩から白い鎖骨のライン、さらにはその先にある胸元のふくらみにかけてが、露わになっていた。
夜明けの薄明かりが、彼女の完璧なまでの美貌を淡く、神秘的に照らし出している。カレンは『火』の能力者だからか、普段から人一倍体温が高い。その高い体温のせいだろうか、胸元やうなじに僅かに浮かぶ、きらめく寝汗の雫。それが薄闇の中で真珠のような妖しい光を放ち、僕の視線を吸い寄せて離さない。いつもは戦場で圧倒的な暴力を振るう最強の妹が、今はただ、僕の愛を乞う無防備な一人の少女として、僕のすぐ隣でじっと見つめてきているのだ。
「ああ。……いいよ」
信じられないことに、僕の口から出たのは、そんな間抜けで締まりのない全肯定の言葉だった。
待ってくれ、と頭の片隅で冷静な自分が激しく警鐘を鳴らしている。これは“夢”だ。間違いなく、ただの僕の願望(?)が最悪の形で入り混じった悪質な白昼夢だ。現実の僕がこんな状況で、そんな簡単にカレンの誘いに乗るはずがない。なのに、夢の中の肉体は完全に本能の赴くままに動いており、理性のブレーキが完全にぶっ壊れていた。
「あたし、お兄の全部を受け入れたい。心も、身体も、お兄の色のほかには何もいらないの。……だから、ね?」
カレンの、少し熱を帯びた指先が、僕の頬をゆっくりと愛おしそうに撫でる。その指先から伝わる熱量が、僕の肌をじりじりと灼いていく。
彼女の瞳――その蜂蜜色の美しい虹彩の奥には、普段の無邪気な妹としての親愛とは、明らかに一線を画す、もっと純粋で、もっと深く、暗く燃え盛るような『兄への異常なまでの執着と愛情』が湛えられていた。一度捕らえられたら二度と抜け出せない、底なしの情念の底がそこにはある。
さらに、薄いシーツの向こう側で、しなやかで肉感的な彼女の足が、僕の足に滑り込むように絡みついてくる。太ももを通じてダイレクトに伝わってくる、火竜の化身ならではの熱烈な体温。脳の芯が、その暴力的な熱でどんどん麻痺していくのがわかった。
「ああ。……受け止めてくれ、カレン」
夢の中の僕は、もはや完全に思考を放棄していた。
いや、今更だが言い訳をさせてほしい。ただの夢、とはいえ、夢の中でも僕は「お兄ちゃん」なのだ。お兄ちゃんたるもの、妹の切実な望みはすべて叶えてあげるべきだし、暴走しがちな彼女の情熱を、しっかりと『正面から受け止めて理性的に抑制する』ことこそが、兄としての崇高な“役割”であるはずだ。そう、これは教育的指導、および適切な兄妹愛の抑制の一環なのだ。断じて邪な気持ちなどない。きっと。
「ふふ、お兄大好き……。ねぇ、あの魔王も『ほどほどに』って言ってたよ? 世界の支配者であるあの球体が、ほどほどなら乱れてもいいって公認してくれたんだから、何も悪いことじゃないよね?」
カレンの潤んだ吐息が、僕の耳たぶを優しくくすぐる。
「ああ。乱れてもいい。……ほどほどなら」
理性的に……。抑制……?
そんな高尚な言葉は、カレンの指が僕のシャツのボタンに触れた瞬間に宇宙の彼方へと霧散した。彼女は長い指先を器用に動かし、一つ、また一つと、僕のシャツのボタンを外していく。はだけていく布地の隙間に冷たい夜気が触れて肌が粟立つが、それ以上にカレンの指先が放つ熱が心地よい。その仕草は、あまりにも無垢で、だからこそ悪魔的なまでに破壊的だった。
「きて、お兄。……あたし、全部準備できてるよ?」
濡れた瞳で僕を見上げ、カレンが限界を突破した甘い声で囁く。その瞬間、夢の中の僕は、お兄ちゃんとしてのすべての理性の鎖を引きちぎった。
「ああ、いくよ、カレン! お兄ちゃんも、準備ビンビ――」
「――って、流されすぎだろぉッッッ!!!!」
ガバッ!!! と。
僕は、自分の叫び声(脳内)と同時に、猛烈な勢いで上体を跳ね起こしていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!?」
心臓が、まるで凶悪な魔物と全力疾走でチェイスした後のようにドカドカと肋骨を内側から激しく叩いている。全身から嫌な脂汗が噴き出し、視界が激しく明滅していた。あまりの衝撃に、自分の頭がどうにかなってしまったのかと思った。
慌てて周囲を見渡す。そこにあるのは、豪華なベッドでもシルクのシーツでもなく、湿った土と植物の青臭い匂い、空間を遮るように生い茂る頑丈な緑の葉。カレンが夜明け前に見つけてくれた、茂みの内部だった。
「……言うほど、ほどほどか……?」
僕は右手で顔を覆い、深いため息をついた。心臓の鼓動がようやく落ち着きを取り戻し始める。
それにしても、夢の中の僕には心底がっかりだ。あまりにも、あまりにもヘタレで情けなさすぎる。全肯定ってなんだ。お兄ちゃんとしての威厳はどこへ行ったんだ。抵抗するフリくらいしたらどうなんだ。兄としての“自覚”と“品性”が圧倒的に足りなさすぎる。現実の僕なら、あんな妖艶な雰囲気に流されることなく、妹を理性的に、紳士的に、毅然とした態度で窘めているはずなのに。そう、現実の僕はもっと、こう、ちゃんとしたお兄ちゃんなのだ。
……だが。
脳裏の片隅で、もう一人の僕がボソリと呟く。もし、あそこでもう少し目覚めずに、夢の続きを見ていたら。もしかしたら、その先でお兄ちゃんらしい見事な奮闘を見せて、カレンを立派に諭す展開になっていたかもしれない。うん、そうだ。ちょっと惜しいことをしてしまったかもしれないな。――いや、断じて「準備ビンビン」の、その先の光景が見たかったわけではない。決して。絶対に。
「……たまには、流されてみるのもいいかもよ? お兄」
「ひゃいっっ!?」
不意に、すぐ真横から聞こえてきた本物の、現実の、カレンの声に、僕は文字通り飛び上がった。危うく今度こそ本当に心臓が停止するかと思った。茂みの天井に頭をぶつけそうになりながら、慌てて体勢を立て直す。
恐る恐る視線を横に向ければ、そこには、膝を抱えて体育座りをした姿勢のまま、じっとこちらを見つめているカレンの姿があった。もちろん、夢の中のような不埒なシーツ一枚姿ではない。彼女の身体をきっちりと包んでいるのは、いつも通りの、隙のない紅蓮の戦闘衣だ。衣服が擦れる微かな音が、僕の耳に現実を突きつける。
だが、あんな夢を見てしまった直後だ。いつもならなんてことのない妹の顔が、今は直視できないほどに眩しく、実に恥ずかしく思えてしまう。
「い、いや! だめだ! お兄ちゃんとして、成すべきことを成し、律するべきところは厳しく律しなければならないんだ、僕は!」
僕は動揺を必死に隠すため、あえてぶっきらぼうな口調を意識し、ぷいっとそっぽを向いて答えた。声が裏返っていなかっただろうか。不自然な態度になっていないだろうか。冷や汗が背中を伝っていくのがわかる。
「ちぇー。魔王だって、『ほどほど』なら乱れてもいいって言ってたのに」
カレンはぷくーっと不満そうに頬を膨らませ、わざとらしく拗ねるフリをして見せた。その子供っぽくも破壊的な愛らしい仕草に、僕の理性の壁がまた少しピキピキと音を立てて揺らぎそうになる。
そうだ。すべては、あの魔王のせいだ。あいつが去り際に、ニヤニヤと歪んだ三日月形の口で『性の乱れはほどほどに~』なんて余計なセクハラ発言を残していったから、僕の深層心理が不必要に刺激されてあんな夢を見る羽目になったんだ。もしこれで、僕たちの兄妹仲に修復不能な亀裂が生じたらどうしてくれる。
「おはよう。カレン、起きるの早いね」
僕は大きく頭を振って頭の中の邪念を払い、周囲の状況を確認することにした。
ノーマンさんとの別れがあり、魔王の現れ――本当に長くて過酷だった一日が終わり、僕たちはようやくこの安全な茂みへと逃げ込んできたのだ。精神的にも肉体的にも限界を迎えていた僕は、死んだように眠ってしまっていたらしい。
「おはよ。お兄が寝すぎなの」
木々の鬱蒼とした隙間から、きらきらと眩しい木漏れ日を注ぎ込む光を見るに、太陽はすっかり高い位置へと登っていた。涼しかった夜の空気は霧散し、じっとりとした昼の熱気が島を包み込み始めている。どうやら、おはようの時間をとっくに通り越して、こんにちはの時間になっていたらしい。
新しい一日が、新たな決意と共に始まった。
第16話お読みいただきありがとうございました。
次回、新しい一日。
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