4.推しの隣は、私には分不相応です
あの雨の日から、何かが決定的に変わった。
ネイサンが、距離を詰めてきている。
それも、以前のような「たまたま同じ空間にいる」というレベルではない。明らかに、意図的に。
たとえば、図書室。以前は同じ空間にいても互いの姿がかろうじて認識できる程度には離れていたのに、最近は椅子を三つ挟んだ私の隣に座るようになった。
たとえば、放課後の教室。以前は各々のタイミングで教室を出ていたが、今では必ず私が席を立つタイミングでネイサンも出ていくようになった。
たとえば、廊下。すれ違う時に、以前は一切動かなかった視線が、一瞬だけ私に向けられるようになった。
一つ一つは些細な変化だ。他の生徒なら気づきもしないだろう。でも、前世で何百時間もネイサンだけを見つめてきた人間には、全部見える。
——推しの行動パターンが変わっている。
これはゲームにはなかった展開だ。
ネイサンが自分から誰かとの距離を縮めるなんて、どのルートにも存在しないイベントだ。
推しの新規行動を観測できている。これはもう、天文学的な幸運と言っていい。
……あ、ゲームといえば、主人公である聖女のお相手、強制的にリオン殿下にしちゃったな。
王妃教育で忙しくなるだろうから、彼女がこの学園に通うことは、きっとない。
本来聖女に救われるはずだった、残りの攻略キャラが6人ほどいた気がするけど、まあどうでもいいか。
ネイサン断罪に関わった奴らなんて、勝手にメンヘラってろ。
◇◇◇
新しい距離感がすっかり定着したある日の放課後、ネイサンが課題に使う資料を広げていた。
今日の課題は、この国の地理に関するものだったが、ネイサンは地図を睨むばかりで、どうにも手が進んでいないようだ。
無理もない。この国で育っていないのだから、土地勘がないのは当然だ。
私は自分の課題をしながら、さりげなく——本当にさりげなく、独り言のていで呟いた。
「……カンブロン河って、地図だと小さく見えますけど、実際は王都の端から端まで歩くより広いんですよね。父に連れられて一度だけ見に行ったことがありますが、対岸が霞んで見えないくらいでした」
資料をめくる音が消えた。ネイサンの手が止まったらしい。
私は自分の課題から顔を上げない。大きな独り言なので。
「あと、北部の山脈は冬になると完全に雪で閉ざされるので、あのあたりの街は秋のうちに一年分の物資を運び込むそうです。それだけ厳しい土地なのに、人が住み続けているのは、山脈から採れる鉱石がこの国の主要な輸出品だから……と、たしか聞いた気がします」
独り言の体裁を保ったまま、課題に必要な情報を勝手に喋り散らかす。完全に不審者だ。
そんな私に、ネイサンは何も言わなかった。でも、ペンが動き始める音がした。
しばらくして、後ろの方から声が聞こえた。
「……この川の名前は」
振り返ると、地図の一点を指していた。
「セゴビア川ですね。南部の穀倉地帯を流れる川で、流域はこの国で最も豊かな農地だと聞いています」
答えてから、気づいた。
ネイサンが、自分から質問をしている。
あの、誰にも頼ることのなかった人が。
自分で全部調べて、それで分からなくても黙っていた人が。
私に、聞いてくれた。
「……助かった」
「いえ、独り言を拾っていただいただけですので」
ネイサンが微かに目を細めた。
笑ったのかどうかは分からない。でも、敵意も警戒もないように見えるその表情は、やっぱり初めて見るものだった。
◇◇◇
こんな日々が続くうちに、ネイサンは少しずつ変わっていった。
廊下で、以前より自然に歩くようになった。
時折浮かべてくれる目を細める表情が、徐々に微笑みの形になってきた。
そして、私が声をかけた時に返事が返ってくるまでの間が、少しずつ短くなっていった。
そのどれもが、ゲームには存在しなかった仕草だった。
私はその一つ一つを、推し活の記録として脳内に丁寧に記録した。
唸れ私の海馬。他の全てを忘れてもいいから、ネイサンに関することだけは長期記憶として保管できるよう、丸ごと大脳皮質へ送ってくれ。
……少し話がそれたが、同時に、私もネイサンに言葉をかける機会が増えていた。
それは意図的なものではなかった。……いや、嘘だ。完全に意図的でした。下心がありました。憲兵さん、私が変質者です。
だって、ネイサンに「ここにいていい」のだと、知って欲しかったから。
それなのに、誰も言ってくれないのなら、私が伝えるしかないだろう。
ネイサンが授業で正答した時は、「ネイサン様、素晴らしい回答でしたね」。
剣術の実技で見事な型を見せた時は、「美しくて思わず見惚れてしまいました。あれだけの剣を振るえるのは、並大抵の努力ではないと思います」。
図書室で選んでいた本が授業に関係のない学術書だった時は、「その飽くなき知識欲、素晴らしいです。ネイサン様の勤勉さを、学園の全生徒は見習うべきです」。
一つ一つは短い言葉だ。
でも、たぶん——ネイサンがこれまでの人生で、触れてこなかったたぐいの言葉だ。
ネイサンは私が話しかけるたびに黙り込むか、「……ああ」とだけ返すか、視線を逸らすかのどれかだった。
でも、一度も「やめろ」とは言わなかった。
◇◇◇
そして。
ある日の放課後、いつもの教室で。
課題を広げていると、ネイサンが私の前に立った。
その手に、本は持っていない。
ただ、まっすぐに私を見ていた。
「エルシィ」
名前を呼ばれた。
様も嬢もつけないそれは、浅はかな私に、ネイサンとの距離を錯覚させてしまいそうになるほどの衝撃があった。
だって、ゲームでは、この人が誰かの名前を自分から呼ぶことは、一度もなかったから。
「俺の隣に、いてほしい」
熱のこもった眼差し。上気した頬。緊張からか、微かにかすれた低い声。
ゲームでは決して見せなかった表情で、この人は今、全身全霊で気持ちを伝えている。
「ここにいていい」と言ってほしかった人が、自分から「隣にいてほしい」と訴えている。
泣きそうだった。
推しの成長を目の当たりにして、涙腺が崩壊しかけた。
——でも。だからこそ。
「ネイサン様」
声が震えないように、唇を引き結んでから、笑った。
嘘偽りのない、心からの笑顔で。
「そのお気持ち、本当に嬉しいです。ネイサン様は、ご自分が思っていらっしゃるよりもずっと素晴らしい方ですから」
全部本心だ。一言も嘘はない。
「勤勉で、誠実で、不器用ながらも他者を思いやることのできる方です。自分から誰かに想いを伝えるのにどれほどの勇気が必要なことか……その勇気を、私のような者に向けてくださったことに、心から感謝します」
さて、ここからが本題だ。
「——だからこそ、そのお気持ちにはお応えできません」
ネイサンの表情が、凍った。
「ネイサン様ほどの方の隣に立つには、私なんかでは分不相応です」
沈黙が落ちた。
ネイサンは私の顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。
それから、静かに聞いた。
「……理由を聞いてもいいか」
「今、申し上げた通りです。私では——」
「それでは納得できない」
遮られた。声は静かだが、硬い芯があった。
「俺にふさわしいかどうかは、俺が決める。俺はお前がいい」
この人は——こんなに自分の意思を伝えられる人だっただろうか。
ゲームでは「ああ」と「……」しか言わなかった人が、こんなにまっすぐ言葉をぶつけてくる。
その成長が嬉しくて、同時にひどく苦しかった。
「ネイサン様のお気持ちは、とても光栄です。でも、ネイサン様が素晴らしい方だからこそ、隣に立つ人間は——」
「お前は俺を肯定するのに、俺が選んだ相手は否定するのか」
ネイサンの言葉に、心臓がずきりと痛んだ。
——痛いところを突かれた。
「……」
私は何も返せなかった。返す言葉が、見つからなかった。
これ以上話し合っても平行線だと悟ったのか、やがて、ネイサンは静かに踵を返した。
去り際に、一言だけ。
「……諦めない」
その背中を見送りながら、私は自分の胸に手を当てた。
心臓が、気が狂ったのかと思うほど早く脈打っている。
——ネイサンが素晴らしければ素晴らしいほど、私には手が届かない存在なのだと考えてしまう。
ネイサンが優しさを見せるたびに、勇気を出すたびに、私の中で彼の格が上がっていく。
そして格が上がるほど、「私なんかがこの人の隣にいていいわけがない」という確信が強くなっていく。
本当は、自分でも薄々気づいている。
私はネイサンに惹かれている。
推しとしてではなく、異性として。
けれども、それを受け入れることができない理由が、私の中にある。
臆病な私は、その正体が何なのか——直視できずにいた。




