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推しは拝むものであって恋人にするものではありません  作者: Megumi


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5.推しが人間を卒業しました

 告白を断った翌日から、ネイサンの猛攻が始まった。


 ——猛攻、という表現が正しいのかは分からない。

 なぜなら、ネイサンのアプローチは相変わらず寡黙で、不器用で、言葉よりも行動で構成されていたからだ。


 たとえば、ある日、いつものようにネイサンの後ろを歩いていたら——推しの背中を鑑賞していたとも言う——不意にネイサンの歩調が落ちた。

 まさか体調が悪いのかと思って少し早足で横に並ぶと、ネイサンは何も言わずに元の速度で歩き始めた。


 待っていたのだ。私が隣に来るのを。


 さりげなさすぎて、普通の人間なら気づかない。

 でも私は気づいてしまった。気づいてしまったので、心臓が大変なことになった。


 また別の日。婚約者がいなくなったことでしつこく言い寄ってきた男子生徒を睨みつけ、追い払ってくれた。

 図書室で、私が探していた本が手の届かない高さにあった時、何も言わずに取って渡された。

 課題の提出期限を私が忘れかけていた時、「明日だ」とだけ言われた。


 どれも些細なことだ。他の誰かがやったなら、どうもありがとうで終わる。

 でもこれを、他人のために何かをする機会がなかった、ネイサンがやっているとなると話は変わる。

 一つ一つが、ネイサンにとっては未知の領域への一歩なのだ。

 それが全部、私のために行われている。


 ——やめてほしい。

 いや、やめないでほしい。

 いや、やっぱりやめてほしい。

 推しに優しくされるたびに、推しの格がどんどん上がっていくのだ。


 格が上がるほど、「こんな素晴らしい人の隣に私がいていいわけがない」が強化される。

 ネイサンのアプローチが、ネイサン自身の首を絞めていることに、本人はまったく気づいていない。


 ◇◇◇


 そんなある日の放課後。

 いつもの教室で、いつものように私は課題を広げ、ネイサンは本を読んでいた。


 ふとネイサンが本を閉じた。

 それ自体は珍しいことではない。でも、閉じた後に私の方へと近づいてきて、じっと私を見てくるのは珍しいことだ。

 あの告白された日のことを思い出して頬が熱を持ってしまい、咄嗟に課題に視線を落として誤魔化した。


「……なぜ、自分を認めない」


 それは、不意打ちだった。

 課題に向けていた視線を、思わずネイサンに向けてしまう。


「お前は俺を肯定する。俺の努力を見つけて、言葉にする。俺がこの国に馴染もうとしていることも、剣を磨いていることも、お前は全部見て、全部『素晴らしい』と言う」


 はい、言いました。全部本心です。あなたの存在自体が素晴らしいです。


「でも、お前は自分には同じことを言わない」

「……え?」

「お前だって『素晴らしい』。王族との縁談を解消する勇気があり、取り巻きが離れても凛としていて……実の父親からも見捨てられた俺のすべてを肯定してくれる」


 ネイサンの言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。


「それは——」

「お前は俺の隣にふさわしくないと言った。なら聞く。お前は、誰の隣にならふさわしいと思える」


 答えられなかった。

 息が浅くなり、頭が思考を拒否している。

 推しの言葉は残らず脳裏に焼き付けたいはずなのに、これ以上聞きたくない。


「誰の隣にも立てないと思っているんじゃないのか。俺だからじゃない。誰が相手でも、お前は同じことを言う」


 ——やめて。

 そこに触れないで。


「お前は俺を肯定するくせに、自分だけは肯定しない。……それが一番、俺を否定していることに気付いているか」


 息が止まった。

 ネイサンの真っ直ぐな視線が、痛くてたまらない。


 彼の言う通りだ。

 ネイサンが素晴らしいのは本当だ。分不相応だという気持ちも嘘ではない。


 でも——それ以前の問題として。


 私は、自分の存在に価値を感じていなかった。

 前世で、「そこそこ」の人生を送っていた。

 友人も仕事も健康も、全部「そこそこ」で、突出したものが何一つなかった。

 そして今世では、中身が丸ごと入れ替わっても、誰も気づかなかった。

 いてもいなくても、変わらない人間。


 推しへの想いも、分不相応という理屈も、それ自体は正しい。

 けれども私は、その正しさの裏側にある本当の問題から——「私はいてもいなくても変わらない人間だ」という、前世から抱えてきたこの空洞から、ずっと目を逸らしていた。


 ネイサンの隣にふさわしくないのではない。

 誰の隣にも立てないと、最初から思い込んでいたのだ。


 視界が、滲んだ。


「……っ」


 泣くな。泣くな、エルシィ・グランヴィル。

 公爵令嬢が、人前で泣くなんて。


 でも、ダメだった。

 エルシィとしての涙と、前世の「そこそこ」の人生分の涙が、一緒に溢れてきた。


「……すみ、ません」


 俯いて、必死に涙を拭った。

 みっともない。推しの前で泣くなんて、最悪だ。

 推しの前では常にポジティブでいたかった。涙で同情を誘うだなんて、もってのほかだ。


「……泣くな」

 ネイサンの声が、すぐ近くから聞こえた。

 顔を上げると、ネイサンがすぐ近くにいた。

 私の頬にぎこちなく手を伸ばしかけて——やめた。


 きっと、どうすればいいか分からないのだ。

 泣いている人間への対処法を、この人は誰にも教わったことがない。

 それでも、逃げずにここにいてくれるのか。


「……泣くなと言ったが」


 ネイサンは少し困ったように眉を寄せて、ぼそりと付け足した。


「……泣きたいなら、今は別にいい」


 その不器用な許可に、余計に涙が溢れた。


 ◇◇◇


 どのくらい泣いていたのか分からない。

 夕暮れの光が教室に差し込む頃に、ようやく涙が止まった。

 ネイサンはずっと同じ場所に立っていた。座りもせず、離れもせず。


「……お見苦しいところをお見せしました」


 瞼が重い。顔も赤いだろう。

 公爵令嬢としては最悪のコンディションだが、不思議と、心は軽かった。


 ネイサンは何も言わず、ただ私を見ていた。

 青灰色の目に、苛立ちはなかった。泣いた私を情けないとも、面倒だとも思っていない。ただ、そっとそばにいてくれている。


「ネイサン様」


 私は涙を拭い終えた目で、まっすぐにネイサンを見た。

 泣き腫らした顔で、精一杯の笑顔を作った。これまでで一番みっともなくて、一番嘘のない笑顔だったと思う。


「気づかせてくださって、ありがとうございます。ネイサン様のおかげで、私は……自分のことが、少しだけ受け入れられた気がします」


 ネイサンの目に、かすかな期待のようなものが灯った。


「こんな私でも、ここにいていいのかもしれないと……そう思えるようになりました」


 ネイサンの表情が緩んだ。

 期待が確信に変わろうとしているのが見える。


「ですので、改めて先日のお返事をさせていただきます」


 自分の気持ちを誰かに伝えるのは、緊張する。

 相手が推しとあらば、尚更である。

 私は噛んでしまわないようにゆっくりと深呼吸してから、シンプルに伝えた。


「やはり、お気持ちにはお応えできません」


 ネイサンが、固まった。


「……は?」


 ゲームでは一度も聞いたことのない、素の困惑の声だった。


「ネイサン様は、私の心の中の壁を壊してくださいました。誰にもできなかったことを、ネイサン様だけがしてくださった」


 これを言うのはちょっと照れ臭いが、想いを告げてくれたネイサンに対して、誠実でありたい。

 私は意を決して口を開いた。


「実は……私はネイサン様に惹かれておりました。尊敬ではなく、恋愛的な意味で」


 言いながら、体温が上がっていくのが分かった。頬が熱い。

 私の告白に、ネイサンの目が見開かれた。


「けれど今、ネイサン様は私にとって——もはや人ではありません」

「…………何?」

「ネイサン様は、神です」


 沈黙が落ちた。


「私の人生を変え、私に自分を肯定することを教えてくださった。それはもう、人間の所業ではありません。ネイサン様は私にとって神になってしまわれたのです」


 どんどんテンションが上がって饒舌になっていく私とは対照的に、ネイサンの顔には、明確な戸惑いが広がっている。


「狂信者は神を愛しています。心の底から、何よりも深く。でも、神の恋人になろうとする信者はいません。神は崇め、拝み、祈りを捧げる存在です。そういうことです」

「……そういうこと、とは」

「ネイサン様が私の心を救ってくださったことで、ネイサン様は『好きな人』から『崇拝の対象』へと昇格されました。私にとってあなたの隣にいるということは、以前にも増して分不相応です。もはや同じ地平に立つことすら畏れ多い」


 今後は草葉の影からそっと崇め奉らせていただきたいのです。と言うと、ネイサンの唇が、微かに震えた。


「俺は、お前の心の問題に気づかせただけで、神にされるのか」

「はい。それほどのことを、ネイサン様はしてくださったのです」

「俺が何かをするたびに、格が上がって遠ざかるのか」

「はい。無限ループです」


 曇りなきまなこで答えていると、ネイサンの肩が震え始めた。

 そして——


「は——」


 笑った。

 声を出して。

 ネイサンが、肩を震わせ、声を出して笑っていた。

 それはもちろん、ゲームのどのルートにも存在しない表情だった。

 処刑エンドにも、追放エンドにもなかった。

 誰にも見せたことのない、たぶん本人すら知らなかったであろう、その顔。


 青灰色の目が細められて、硬く結ばれていたはずの唇の端が上がって、低い声が掠れながら漏れている。


 美しかった。

 反則的なまでに、美しかった。


 ——ああ、これは。


 この笑顔を見てしまったら、もう取り返しがつかない。

 神は私が崇拝するたびに、生き生きとした表情を見せてくださるのだ。

 これを信仰せずになど、いられるはずがない。

 この表情を引き出したのが私だという事実だけで、あと五百年は生きていける。


「……お前は、本当に……」


 ネイサンは笑い終えた後も、まだ目元に笑顔の残滓を浮かべていた。

 そして、静かに言った。


「なら、今は信者でもいい。隣にいろ」

「主よ、論理が破綻しております」

「お前の教義の方がよほど破綻している」


 ——それは、否定できないかもしれない。


 ◇◇◇


 夕暮れの教室に、穏やかな沈黙が降りた。

 ネイサンは窓際の定位置に戻り、本を手に取った。でも、ページをめくる気配はない。

 私は自分の席で、閉じた課題のノートをぼんやりと見つめていた。


 何も解決していない。

 私は相変わらず断っているし、ネイサンは相変わらず諦めていない。

 無限ループは止まっていない。


 でも、一つだけ変わったことがある。


 私は今日、ずっと見ないふりをしてきた自分の弱さと向き合い、ネイサンの前でみっともなく泣いてしまった。

 それでも、泣いた後の自分を、少しだけ嫌いじゃないと思えたのだ。


「……ネイサン様」

「なんだ」

「これからも、あなたを崇拝してもいいですか」


 ネイサンは本に視線を落としたまま、答えた。


「……勝手にしろ」


 ほんの少しだけ、耳が赤かった。


 ああ、主よ。

 やっぱりあなたは、ありのままの私を受け入れてくれるんですね。


 神は拝むものだ。

 恋人にするものではない。

 それだけは、いくら神自身に望まれようとも、絶対に揺るがない。


 ——ただし。

 淡い恋心が崇拝へと変わったように。この気持ちがいつまでも崇拝のままである保証は、どこにもないけど。


最後までお読みいただきありがとうございました!

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