3.婚約破棄イベント、地味に終了しました
推しに助けられるという、まさかの出来事から半月が過ぎた頃、ようやく動きがあった。
聖女が本物だと、教会から正式に認められたのだ。
もちろん私は最初から知っていたが、これでようやく婚約解消が正式に決まる。
ある日、リオン殿下から面会の申し入れがあった。
指定された場所は、学園内の貴賓室。普段は来賓の接遇にしか使われない、格式の高い部屋だ。
わざわざこの部屋を用意したということは、それだけ重要な話なのだろう。
向かい合って座った殿下の表情には、申し訳なさがにじんでいる。
私はその表情を見た瞬間に、すべてを察した。
「聖女様のことですね。以前お伝えした通り、私は謹んで身を引かせていただきます」
殿下が目を見開いた。
覚悟を決めて切り出そうとした途端、あまりにもあっさりと欲しい言葉が与えられて、明らかに拍子抜けしている。
「……恨み言の一つくらいは覚悟していたんだけどな」
「お恨みする理由がありません。婚約の解消は、私から申し出たことですので」
散々厳しい王妃教育をさせておいて、今更婚約を白紙に戻すのだ。
他国の王族との縁談でもまとめてもらわないと割に合わないとでも、ごねるべきだったか。
でもそれは困る。だって婚約者がいたら色々と誤解されそうで、推し活ができないじゃないか。
私がそんなことを考えているとは知るよしもない殿下は、しばらく私の顔を見つめてから、居住まいを正して言った。
「グランヴィル家への補償と、対外的な説明は王家が責任を持つ。聖女の出現に伴い、王家の
婚姻を見直す必要が生じた——という形にする。君の英断には、父上も大変感謝している」
「ご丁寧にありがとうございます」
「それと……次の縁談についても、もし望むなら王家から口添えを——」
「それには及びません」
即答してしまった。
殿下がまた目を丸くしている。
いけない、もう少し悩むふりくらいすべきだったかも。
「……君は、少し変わっているね」
殿下は苦笑してそう言ったが、なぜ断るのか、とは聞かなかった。
興味がないのだろう。私がなぜ縁談を不要とするのか、その理由に。
聞いて欲しかったわけではない。ただ、ああやっぱりそうなんだな、と思った。
この人にとって、縁談の口添えは「自分の罪悪感を軽くするための提案」であって、「エルシィの人生への関心」ではないのだ。
私がそんなことを考えているとは知らずに、殿下は深く頭を下げてみせた。
「こちらの都合で君の人生を大きく変えてしまって、本当に申し訳ない」
悪い人ではないのだ。本当に。誠実に謝ってくれている。
最後まで、「エルシィ」を見てはいなかっただけで。
——でも、それでいい。
私だって、この人を見てはいなかったのだから。
◇◇◇
婚約解消が正式に決まった翌日、父から手紙が届いた。
内容は極めて事務的だった。王家からの補償条件の概要と、今後の方針について。
“殿下から別の相手に乗り換えるのは外聞が悪いので、卒業後は修道院に入ること。殿下以外はお受けしないという姿勢を示すことで、王家への忠誠の証にもなる」
……決定事項だった。
一応私の人生なのだが、私の意見を聞く気は、最初からないらしい。
まあ、貴族とはこういうものだ。娘の人生の重大な岐路に際して、考慮するのは政治的な損得だけ。本人がどう思うかなど、問題ではないのだ。
しかし今回ばかりは、父の打算と私の願望が完全に一致してしまった。
修道院。生涯独身。信仰に捧げる人生。
——最高じゃないか。
縁談の心配をせずに、残りの人生を推し活に捧げられる。
これ以上ない環境が、父の合意のもと用意されたのだ。
一つだけ心配なことといえば、この煩悩にまみれた私が修道院に馴染めるのかということだけど。
まあ、なんとかなるか。
こうして、私は晴れて自由の身になった。
没落もしなければ、断罪もされない。拍子抜けするほど静かな幕引き。
ただ、静かな変化は確実に起きていた。
取り巻きの令嬢たちが、少しずつ距離をとり始めたのだ。
最初は「お気の毒に」「何かあったらいつでもおっしゃってね」と、同情混じりの声をかけてきた。
しかし、日が経つにつれて声は減り、昼食に誘われることもなくなり、気がつけば廊下で目が合っても会釈だけで通り過ぎるようになっていた。
王子の婚約者でなくなった公爵令嬢。いい年をして次の縁談もない令嬢。
そばにいる利点が減れば、人は静かに離れていく。
——知っていた。
前世でも、こういうことはあった。
だから別に、傷つきはしない。
一人で昼食をとるようになった。それだけのことだ。
今日も変わらず、私は食堂の隅の席で、姿勢を正して静かに食事をしていた。
誰に見られていなくても背筋は伸びるし、カトラリーの扱いも完璧だ。公爵令嬢として身につけた所作というのは、人目がなくても崩れないものらしい。
ただ、以前と違うのは、食事を終えた後にほんの少しだけ、視界の端で推しを探す余裕ができたことだ。
推しとの距離は、変えなかった。
変える理由がない。婚約者がいなくなったからといって、推しとの適切な距離が変わるわけではない。
推しは推しだ。遠くから拝むもの。それは婚約者がいてもいなくても同じだ。
だから、以前と何も変わらない日常のはずだった。
——変わったのは、ネイサンの方だった。
一人で行動していると、ふと気配を感じることが増えた。
顔を上げると、少し離れた場所からこちらを見ているネイサンと、一瞬だけ目が合う。
目が合った途端、ネイサンはすっと視線を逸らす。
……気のせいだろうか。
推しに対する愛が、とうとう都合の良い幻覚を見せ始めたのだろうか。
この時の私は、その視線の意味をまだ理解していなかった。
◇◇◇
変化は、少しずつ——しかし確実に大きくなっていった。
図書館で本を読んでいると、いつの間にか同じ空間にネイサンがいる。
中庭のベンチで一人まったりしていると、少し離れた木陰にネイサンが座っている。
放課後の教室になにかと理由をつけて戻ると、窓際の席にネイサンがいる。
……いや、最後のは元からだけど。
でも、明らかに遭遇する頻度が増えている、気がする。
え? 私、婚約解消による解放感から、無意識のうちに推しのストーカーをしてる?
自分で自分を信じられなくなってしまったが、私の行動パターンは変わっていないはず。
ということは、あの、自分の存在を消すことに全力を注いでいたネイサンが、私と同じ空間にいることを選んでいる、ということだろうか。
あっ、あっ……まずい。このままではなんか小さくて可愛いやつならぬ、なんか息が荒くてキモいやつになってしまう……!
ダメだ、落ち着け。冷静になれ。
推しの行動を都合よく解釈するのはオタクの悪い癖だ。
きっと、たまたま居心地のいい場所が被っているだけだ。彼も私も、人の少ない場所を選んでいるんだから。
それ以上の意味はないはずだ。きっと。
とはいえ、同じ空間に推しがいる回数が増えたのは事実で、それに伴い、推しの日常を目撃してしまう機会も増えた。
ある日の授業の移動中のこと。
前を歩いていた女生徒がネイサンとすれ違いざまに小さく悲鳴を上げ、思わずといった様子で友人の影に隠れた。
しかしネイサンは足を止めなかったし、表情も変えなかった。
ただ、足早にその場を立ち去る彼女たちとは対照的に、ネイサンの歩幅がほんの少しだけ狭くなった——ように、私には見えた。
つられて周囲の生徒たちがネイサンから不自然に距離を取り始めたので、私は逆にネイサンの近くを歩くことにした。
せめて推しの歩行の邪魔にならぬようにと背後をとってみたが、思った通り、他の生徒が不自然に空間を開けてくれているおかげで、ネイサンのそばは大変歩きやすい。
それに背後からなら、思う存分、自然に推しの姿を楽しむことができる。
そんな不埒な視線をネイサンの背中に注いでいたら、視線がうるさかったのか、ネイサンがちらりと肩越しに振り返ってしまった。
不意打ちのおかげでばっちり目が合って心臓が止まるかと思ったが、ネイサンはなにも言わずすぐに前を向いた。
もしかして、怖がらせてしまったのだろうか。しかし、歩くスピードは変わっていないので、避けられてはいないと思いたい。
特に咎められなかったのをいいことに、私は何事もなかったかのように、推しの後ろを歩き続けた。
内心では「制服越しでも分かる背筋……最高」とか思っていたが、そんなことは顔には出さない。……出さなかったと、思いたい。
◇◇◇
そして、決定的な瞬間は、ある雨の日の放課後に訪れた。
その日も、教室には私とネイサンだけが残っていた。
もはや珍しいことではない。放課後の教室はいつの間にか、人を避けたい私たちの共有スペースになりつつあった。
私は課題を広げ、ネイサンは本を読んでいる。会話はない。ないのだが、不思議と居心地は悪くなかった。というか、はっきり言って最高だった。
息が荒くならないよう、最大限呼吸に注意を払わないといけないことを除けば、だけど。
だんだんと雨音が激しくなってきている。
どうやら、雨足が強まってきているようだ。
私は課題を終えてノートをカバンにしまいながら、ふと窓の外を見た。
「雨、強くなりましたね」
独り言のつもりだった。返事は期待していない。
しかし、ネイサンは本から顔を上げた。
「……なぜ」
唐突な問いかけに、私は首を傾げた。
「なぜ? なぜか……えっと、雲の厚みとかが関係している、のかも……?」
理科の知識なんてとっくの昔に忘却の彼方へといってしまった。
しどろもどろになりながら、なんとなくそれっぽいことを言ってみたが、ネイサンは眉間に皺を寄せている。やっぱり違う?
「そっちではなく……なぜ、俺を避けない」
あ、間違えた。そりゃそうだ、なぜなぜ期の幼児じゃないんだから、なんで雨が強くなったのかなんてこのタイミングで聞くはずないよね。
ネイサンは本を閉じ、青灰色の目で真っ直ぐに私を見ていた。
もうそこには、警戒の色はなかった。代わりにあったのは、純粋な困惑だった。
「自分を忌避しない人間」の存在を、きっとこの人は理解することができないのだ。
ネイサンの質問に、どう答えたらいいのか。私には難しい問いだった。
語り出せば長くなるし、喋ってはいけないことが多すぎる。
だから、なるべく簡潔に、当たり障りのない答えを伝えてみた。
「避ける理由がありません」
しかし、私の回答が不満だったのか、ネイサンが眉を顰めた。
まるで、「理由ならいくらでもあるだろう」とでも言いたげだ。
いや、でも本当にないんです。
確かに、愛人の子であるネイサンの存在は、王妃やその子供達にとってはさぞ脅威だっただろう。
しかし、だからといって、悪意のある噂を捏造して敵国に追い出すなんて、どう考えてもやり過ぎだ。
100%の純度で被害者のネイサンを避けるなんてもってのほか。できることならネイサンの母国を滅ぼしてやりたいくらいだというのに。
なんでお前が知っているんだってなってしまうから、何も言えないのがもどかしい!
仕方なく私は、今度はさらっと嘘をついてみることにした。
「人の噂を鵜呑みにするなというのが我が家の家訓なので」
しかし、それでも納得がいかないようで、ネイサンは目力だけで自白を促してくる。
……仕方ない。うっかりゲームのことだけは言わないように気をつけながら、嘘偽りのない本心を伝えるか。
「——私は、ネイサン様がこの国の歴史書を読んでいらっしゃることも、剣の手入れを欠かさないことも、私が間抜けにも棘に捕まってしまった時に助けてくださる優しさをお持ちなことも、全部知っています。それを見て、それでもあなたを避けようと思う人間がいるとしたら、その方の目は節穴だと思います」
ここまで一息で喋ってから、私は冷や汗をかいた。
喋りすぎた。明らかに喋りすぎた。だから言いたくなかったんだよ。
推しについて語り出すと止まらなくなるのは、私の前世からの悪癖だ。
私の気持ち悪い熱意に引いてしまったのか、ネイサンは無言で私から視線を逸らした。
そのまま視線を窓の方に向けて、雨を見ている。
「……変な奴だ」
それが、ネイサンの返事だった。
その言葉には既視感がある。なぜだろうと少し考え、思い出した。つい最近、殿下に言われたばかりだった。
でも、殿下の「変わっているね」と、ネイサンの「変な奴だ」は、全然違う響きを持っていた。
殿下のそれは、理解の外にあるものを穏やかに遠ざけるようなものだった。
一方、ネイサンのそれは——理解できないものを、それでも受容してくれているような響きがあった。
……と、思いたい。ただの厄介オタクの願望かもしれないけど。
話は終わったとばかりにネイサンが立ち上がり、教室を出ていく。
その背中が扉の向こうに消える直前、ほんの一瞬だけ足が止まった。
「……また、明日」
「っ! ええ。ご機嫌よう、ネイサン様」
ああっ……! 私もう、死んでもいいわ。
——いや、やっぱり今のなし。推しとの約束を守るためなら、明日の私は死んでいてもこの教室に来なければ。
私は無人になった教室で一人、そう決意した。




