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推しは拝むものであって恋人にするものではありません  作者: Megumi


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2.推しは遠くから拝むものです

 私はネイサンと出会ってすぐに、実家の父に手紙を出した。

 内容はいたってシンプルだ。「殿下との婚約を解消したい」。

 理由には聖女出現の噂を挙げた。


 だって私知ってる。ゲーム死ぬほどプレイしたから。エルシィの婚約破棄は、どのルートでも確定で発生するイベントだって。

 リオンルートでは、殿下が聖女に惹かれたことがきっかけで、エルシィが嫉妬に狂って暴走した末に、公開処刑のような形で破棄される。他のルートでも、理由は違えど結末はだいたい同じ。

 つまり、この婚約は遅かれ早かれ終わるのだ。

 待っていればいずれ向こうから切り出してくれるだろうが——そんなことを待っている時間が惜しい。

 婚約者という足枷がついたままでは、思う存分推し活を楽しめないじゃないか。


 父からの返事は、翌朝には届いた。速いな。

 しかし内容は、私の手紙への返答というよりも、父自身の判断を記したものだった。

 いわく——聖女出現の噂はすでに社交界で広まっており、真偽が確定すれば王家の婚姻関係に再編が生じるのは避けられない。公爵家から先手を打って身を引く方が、破棄される形になるよりも政治的に遥かに有利である。すでに根回しは始めている、と。


 ……私の手紙がなくても、同じ結論にたどり着いていたらしい。

 流石、腐っても公爵家当主なだけある。利害に関する計算だけは速いのだ。

 娘の意向を汲んでくれたのではなく、たまたま利害が一致しただけだが、まあ、結果オーライだろう。


 ともかく、家としての方針は固まった。

 あとは父と王家の間で正式な手続きが進むのを待つだけだ。


 しかし、念には念を入れておかなければ。

 ということで、私はその日のうちに、リオン殿下に面会を申し入れた。

 政治的には父に任せておけばいい話だ。けれども、世の中には万が一というものが存在する。

 父の心変わりに備え、婚約解消に同意する人間を一人でも多く用意しておかなければ。


 殿下から面会場所に指定されたのは、学園の応接室だった。

 向かい合って座ったリオン殿下は、表情こそ穏やかだったが、その目には若干の警戒が浮かんでいた。

 入学式で完全に無視してしまった件を根に持っているのかもしれない。……まあ、根に持たない方がおかしいか。


「殿下。本日は折り入ってお話がございます」

「改まって、一体どうしたんだ?」

「婚約を解消していただきたいのです」


 私の言葉に、殿下が目を見開いた。

 それはそうだろう。まさか殿下を完全無視して日が浅いうちに、格下の私から婚約解消を求めるなど、不敬極まりない。時代が時代なら、首を刎ねられていたかもしれない。


「……理由を、聞いてもいいかな」

「率直に申し上げます。聖女が現れたという噂は、すでに殿下のお耳にも届いておいでですよね」


 殿下の表情が、わずかに動いた。

 聖女の出現は、まだ公式には発表されていない。神殿が真偽を確認している最中だと聞いている。しかし、これだけの大事が完全に秘匿できるはずもなく、父が言っていた通り、社交界ではすでにまことしやかに囁かれている話だ。


「もし聖女が本物であれば、殿下のお立場にも変化が生じるでしょう。その時、私という婚約者の存在が、殿下にとっても王家にとっても、障害になりかねません」

「仮に聖女出現の噂があったとして、なぜ今婚約解消をする必要が?」

「待つのは性に合いません。それに、聖女は大変清廉で美しい方だと聞いております。いずれ婚約を解消されるのであれば、その前に自分から身を引いた方が私の体面も保たれます」


 殿下はまるで真意を確かめるように、しばらく私の顔を見つめていた。

 聖女出現の噂自体を否定しないということは、やはりそれなりに信憑性がある話なのだろう。

 もっとも、私には無敵のゲーム知識があるので、聖女が本物であることは最初から分かっているのだが。

 王家にとっては渡りに船のこの提案を、断る理由なんてないはずだ。


「……そうか。すでにグランヴィル公とは話が進んでいるのかな?」

「父がそのように動いているかと存じます」

「なら、正式な話は父上とグランヴィル公の間で進むだろう。わざわざ伝えにきてくれてありがとう」

「この話の当事者は殿下と私ですから。まず殿下にお伝えするのが筋かと」


 嘘だけど。

 まさか確実に婚約解消をしたいから根回ししているだけです、とは言えず、なんとなくそれっぽいことを口にしてみた。

 予想通り、温厚な殿下はそんな私利私欲に塗れた私の本心には気付かなかったようだ。

 少し意外そうな顔をして、それからふっと初めてみる種類の笑みを浮かべた。


 ◇◇◇


 さて、根回しは終わった。

 あとは父と王家の間で正式な手続きが進むのを待つだけだ。

 とはいえ、聖女の出現はまだ教会から正式に認められていない。その真偽が確定しない限り、婚約解消の話も動きようがないだろう。

 ゲーム知識を持つ私としては「本物なので今すぐ解消で」と言いたいところだが、根拠を示せない以上、待つしかない。


 しかし、待つだけで終わる私ではない。

 婚約がまだ正式に解消されていなくても、ひっそりとなら推し活はできる。

 推しと同じ学園にいるという奇跡を、一日たりとも無駄にするわけにはいかないのだ!


 ——なんて宣言したはいいものの、学園生活が始まって、改めて思い知った。

 ネイサンを見つけるのは、本当に難しい。


 分かってはいた。ゲームでもそうだったから。

 でも、同じ学園にいるのに見つけられないという体験は、画面越しに知っていたのとはまるで違った。

 ネイサンは意図的に人の視界から消えている。

 廊下では壁際を歩き、教室では最後列の窓際に座り、食堂ではいつも人の流れが途切れた頃にひっそりと現れる。

 その徹底ぶりは、もはや技術と呼んでいい。


 でも、私は五割くらいの確率で見つけられる。

 なぜなら私は、前世で何百時間もかけてネイサンだけを見つめてきた人間だから。


 もっとも、見つけたからといって、もちろん駆け寄るわけにはいかないし、声をかけることすらままならない。

 なぜなら私の婚約はまだ解消されていないからだ。この状態で特定の男性に近づけば、ネイサンまで余計な噂の的になってしまう。

「兄殺し」の噂だけでも十分すぎるのに、「公爵令嬢をたぶらかした」などという汚名まで着せるわけにはいかない。

 だから、今は距離を守る。


 そもそも、推しは遠くから拝むもの。

 それがオタクの基本姿勢だ。


 なんて、天然記念物を遠くから愛でるような気持ちで推し活をしていても、偶然というのは向こうからやってくるもので。

 ある日の放課後、忘れ物を取りに教室に戻った私に、ちょっとした幸運が舞い込んできた。


 ちなみに、ネイサンと私は同じクラスだった。ゲームでも主要キャラクターは同じクラスに配属されるので、そこに驚きはない。

 ただ、授業中のネイサンはあまりにも気配がなさすぎて、同じ教室にいるという実感が湧かないのが困りものだ。

 たびたび深呼吸をして推しの存在を感じようと試みたが、何も感じなかった。

 推しの匂いを知らないのだから、当然と言えば当然だが。


 とにかくその日、教室の扉を開けると、なんと窓際の席にネイサンがいたのだ。

 彼は一人で本を読んでいた。

 人気のない放課後の教室を選んでいるのは、誰の目も気にせず過ごせる場所がここしかないからだろう。


 足音に気づいたネイサンが顔を上げ、私を見て、わずかに身構えた。

 入学式以来、会話らしい会話はしていない。私のことを覚えているかどうかも怪しい。


「お邪魔します。忘れ物を取りに来ただけなので」


 私は平静を装ってそう言うと、できるだけ音を立てないように自分の席に向かい、机の中から目当てのノートを引っ張り出した。

 ちらりとネイサンの手元を見ると、読んでいるのはこの国の歴史書だった。

 ゲームでも、ネイサンが学園の図書室で本を読んでいるシーンがあった。

 敵国から来た人質が、この国の歴史を自ら学んでいる。それを知っている人間は、ゲームの中にも誰一人いなかった。


 ——ああ、やっぱりそうだ。


 この人は、ここに馴染もうとしている。

 嫌々この国にいるわけではない。居場所がないなりに、自分から理解しようとしている。

 でも誰にもそれを見せないし、気づいてもらうことも期待していない。


 ノートを手に取り、立ち去ろうとして——ふと、足が止まった。

 言うべきではないかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。


「……ネイサン様は、勤勉でいらっしゃるのですね」


 ネイサンが怪訝な顔をした。


「この国の歴史書を読んでおられるのだなと思いまして。……失礼しました」


 それだけ言って、教室を出た。

 大したことは言っていない。見たままを口にしただけだ。

 でも、たぶんネイサンにとって、自分の行動を「勤勉」という肯定的な言葉で表現されたことは、あまりない経験だったのではないかと思う。

 振り返らなかったから、その時のネイサンの表情は見ていない。

 見なくていい。正直めちゃくちゃ気になるけど、見なくていい。

 推しが少しでも「自分のしていることは間違っていない」と感じてくれたら、それだけで十分だから。


 ◇◇◇


 それからも、偶然という名の幸運は何度か訪れた。


 ある日は、中庭の木陰で、ネイサンが一人で剣の手入れをしているのを見かけたのだ。

 刀身に沿って布を滑らせる所作に迷いはなく、とても丁寧で美しかった。

 ゲームでは「ネイサンの剣術は自己流である」という設定があった。教えてくれる人がいなかったから、自分で覚えるしかなかったのだ。

 誰にも教わらずに身につけた技術を、誰にも見せずに黙々と磨いている。


 ……推しの素振り、ぜひ拝みたい。そして動画で無限にリピートしたい。

 しかしこの世界にはスマホがないので、網膜に焼き付けるしかないという事実に、私は内心で咽び泣いた。

 せめて脳内で一時停止と10秒戻りができないものか。刀身を見つめる真剣な眼差し、布を持つ意外とごつごつとした男らしい手、手入れが終わった瞬間のふっと息を吐く瞬間の表情——その全てを記録したいのに、人間の目には録画機能がついていない。神はなんと不完全な生き物をお作りになったのか。実に嘆かわしい。


 ◇◇◇


 そんな日々の中で、まさかのイベントが発生した。

 ——いや、私は主人公ではないので、イベントというかただの偶然なんだけど。


 ある日、私は疲れ切っていた。原因は取り巻きの令嬢たちだ。

 殿下に婚約解消を申し入れたことは、まだ公にはなっていない。だから取り巻きたちの中で私は「リオン殿下の婚約者」のままなので、聖女の噂が広まるにつれて「エルシィ様、聖女をどう思いますか」「殿下のお心は変わらないとは思いますが……」としきりに聞かれるのだ。

 正直に「婚約は解消するのでどうでもいいです」と言えれば良いが、当然無理なわけで。

 かといって、不安げな表情を浮かべて上辺だけの心配をされるのも面倒だ。

 私は適当な理由をつけて昼休みの集まりを抜け出し、人のいない場所を求めてさまよった末に、学園の裏庭に辿り着いた。


 石畳は苔むして、花壇は雑草に侵食されかけており、植え込みの薔薇は剪定されずに茨のように伸び放題だ。

 美しい庭園があるこの学園で、手入れの行き届かない裏庭にわざわざ足を運ぶ人はいない。

 とても静かで、いい場所を見つけた。

 と、思った矢先のことだった。


 背中に、引っ張られる感覚がした。


「……え」


 振り返ろうとしたが、布の小さな悲鳴が聞こえて慌てて動きを止めた。

 どうやら伸び放題の薔薇の棘が、スカートの背面にがっちりと絡みついているようだ。


「……嘘でしょう」


 手を後ろに回してみるが、背中側なので棘の位置がよく見えない。

 闇雲に引っ張れば生地が破れるし、棘で手を傷つける可能性もある。

 かといって、このまま立ち尽くしていても状況は改善しない。

 私は棘に捕まったまま、途方に暮れた。


 ……推しの一挙手一投足を見届ける崇高な使命を負った人間が、こんなところで植物に捕獲されるなんて、なんて情けない。


 こうなったら、スカートを脱いでパンツ一丁で棘を外すしか——そう思ってスカートのホックに手をかけた時、背後から足音が聞こえた。


「……何をしている」


 振り返らなくても分かった。

 ——ネイサンだ。


 よりによって、なぜここに。

 いや、理由は分かる。

 ネイサンも、人目を避けられる場所を探していたのだ。

 たどり着く先が同じなのは、ある意味で当然かもしれない。

 だからって、何もこんな間抜けな姿を晒している時に出会わなくてもいいじゃないか。


 答えたくなかったが、推しの問いを無視するくらいなら羞恥心で死んだ方がマシだ。

 私は観念して口を開いた。


「お恥ずかしいのですが……スカートが」


 私は背中側を示した。

 ネイサンは一瞬、状況を理解できないような顔をしてから、無言で近づいてきた。

 そして、何も言わずに背後に回ったと思うと、スカートを引っ張られる感覚が、少しずつ軽くなっていく。

 どうやら棘を一本ずつ外してくれている——のだと思う。

 でも、信じがたかった。

 ゲームのネイサンは、他人のために何かをするキャラクターではなかった。

 誰かに助けを求めることも、誰かを助けることもない。

 そういう機会自体が、彼の人生には存在しなかったのだから。


 やがて、ふっと体が自由になった。

 あまりにもあっさり解放されて、拍子抜けするほどだった。


「……ありがとうございます」


 安堵と、気恥ずかしさと、そして推しが目の前にいるという事実。

 それらが全部ごちゃ混ぜになって、気がついたら、公爵令嬢の仮面を被り忘れていた。


 社交の場で浮かべるような、計算された微笑みではない。

 ただ嬉しくて、ただありがたくて、思わず零れてしまった——エルシィ・グランヴィルではなく、前世の「私」の笑みが。


 ネイサンが、固まった。

 青灰色の目が、わずかに見開かれている。


 ——しまった。今の、完全に素だった。


「……あの、何か?」

「いや……何でもない」


 ネイサンは視線を逸らすと、私に背を向けて歩き去ってしまった。

 その歩調が、ほんの少しだけ、いつもより速かった——ような気がした。


 ぽつんとその場に残った私は、しばらく経ってからようやく、ネイサンの居場所を奪ってしまったことに気づき、頭を抱えてしまった。


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