1.推しがいる世界に転生したらしい
……推しに告白された。
いや、「俺の隣に、いてほしい」というのは、ギリギリ告白ではない——というには、無理のある表情だった。
熱のこもった眼差しに、上気した頬。緊張からか、微かにかすれた低い声からは、彼の切実さが痛いほど伝わってきた。
これは人生最大の快挙と言ってもいいだろう。前世と今世を合わせても、これ以上の出来事は今後二度と起きないと断言できる。
だからこそ、私は自信を持って彼に告げた。
——「そのお気持ちにはお応えできません」と。
◇◇◇
前世の私の人生は、特に語るべきことがない。
友人はそこそこいたし、仕事もそこそこしていたし、健康もそこそこだった。何もかもが「そこそこ」で、突出したものが何ひとつない、薄味の人生。
そんな私にも唯一、情熱を注いでいるものがあった。
乙女ゲーム「聖女と七つの星」の第三王子、ネイサン。
王子という肩書はあるものの、愛人の子供だった彼は攻略対象ですらなかった。
敵国ルテティアから人質として送られてきた、影の薄い不遇の王子。
表向きは留学と称されていたが、扱いは実質、外交の駒だ。
学園では誰にも話しかけられず、どのルートでも後半で「裏切り者」のレッテルを貼られ、処刑されるか追放されるかのどちらかで退場する。
公式からの扱いも露骨で、グッズ展開はゼロ、ファンブックでの紹介はたった半ページ。人気投票は毎回最下位だった。
それでも私はネイサンが好きだった。
好きだからこそ、ネイサンが「裏切る」場面を何度も読み返して、気づいた。
彼は本当は裏切りたくて裏切ったんじゃない、と。
母国からの命令に、逆らいたかった。
でも、この国に残る理由もなかった。
自分を受け入れてくれる場所が一つもない中で、抗う気力を持ち続けることなんて、できなかっただけだ。
リオンルートのバッドエンドで、ネイサンは処刑される間際にこう呟く。
「……ああ。一度でいい、誰かに"ここにいていい"と言ってほしかった」
そのテキストを画面越しに読んだ瞬間、私は泣いた。
嗚咽が止まらなくなって、ティッシュの箱を一つ使い切って、翌日目が盛大に腫れたまま出社した。
推しは、画面の向こうで一人ぼっちだった。
……そしてたぶん、私も。
だから——十三歳の誕生日を迎えた朝に、唐突に前世の記憶が戻って。
この世界が「聖女と七つの星」で、自分が悪役令嬢エルシィ・グランヴィルだと気づいた時。
私が真っ先に考えたのは、「シナリオをどう回避するか」ではなかった。
(ネイサンに会える)
その事実に、心臓が静かに震えた。
◇◇◇
エルシィ・グランヴィルは、清々しいほど典型的な噛ませ犬だ。
公爵家の令嬢として第一王子の婚約者になるものの、聖女の出現をきっかけに嫉妬で暴走し、最終的に婚約破棄されて没落する。ざまぁされるために生まれてきたような女。
正直に言えば、ゲームをプレイしていた時の私はエルシィに特に興味がなかった。
「まあそういうキャラだよね」くらいの認識で、彼女の事情を深く考えたことはなかった。
しかし、いざエルシィの記憶を内側から覗いてみると、少しだけ見え方が変わった。
前世の記憶が戻ったあの朝。私はそれまでとはまるで違う人間になっていたはずだ。
話し方も、考え方も、笑い方も——何もかもが、十三年間この世界でエルシィとして生きてきた少女のそれではなくなった。
なのに、誰も気づかなかった。
両親も、侍女も、取り巻きの令嬢たちも。
「エルシィ」がいなくなったことに、誰一人として気づかなかった。
……なんだ。
前世の私と、同じじゃないか。
「そこそこ」の人間関係の中で、中身が丸ごと入れ替わっても誰も困らない。
いてもいなくても変わらない。
前世の私も、本物のエルシィも、きっと同じだ。
ただし、私は悪役令嬢としての義務を果たす気はまったくない。
婚約破棄? どうぞご自由に。
没落? ご随意にどうぞ。
聖女に嫉妬? 推し活で忙しいのでそんな暇はない!
私にとって、この世界に転生した意味はただひとつ。
推しが、同じ空の下にいる。
もうそれだけで、この人生は前世の百倍価値がある。
◇◇◇
王立学園の入学式。
ハレの日ではあるが、私は式典の内容を一ミリも覚えていなかった。
学園長の挨拶が長かったような気がする。来賓の祝辞もあったかもしれない。
しかし、そんなことはどうでも良かったのだ。
私は式典の間中ずっと、講堂のどこかにいるはずのネイサンを探していた。
視線だけを動かして、前の列を、隣の列を、時に若干不自然な動きで後ろの列を、できる限り遠くまで見渡した。
それなのに、見つけられなかった。
愛の力をもってしても、何百人もいる生徒の中に、ネイサンの姿をどうしても見つけることができなかったのだ。
隣に座っていた婚約者のリオン殿下が、式の最中に何か話しかけてきた——ような気もする。人目がある場ではきちんと婚約者としての体面を保とうとする方なので、おそらく社交辞令的な言葉をかけてくださったのだと思う。
それに対して私が何と返したのか、まったく覚えていない。
というか、何も返していない可能性が高い。
後日、殿下の従者づてに「式典の折、殿下がお声がけくださったのに、お返事がなかったようですが……」と遠回しに伝えられたので、たぶん本当に何も喋っていなかったのだろう。
殿下には申し訳ないことをした。
だが、正直それどころではなかったので、広い心で許していただきたい。
式典が終わると、生徒たちが続々と移動していった。
しかし、私はすぐには立ち上がらなかった。
だって、まだ見つけていないから。
ネイサンを見つけていない。
もしかして、入学式に出席していないのだろうか。
それともまさか、私というイレギュラーが存在するこの世界には、いないとか——
絶望的な気持ちになりながら、人の波が引いていく講堂を見渡した時。
最後列の端に、人影が一つ。
他の生徒がほとんどいなくなった講堂に、ぽつんと座ったまま、動かない人間がいた。
(——いた!)
式典の間中、ずっと探していたのに見つけられなかった。
何百人もの生徒の中で、その存在はあまりにも希薄で、周囲に溶けるように消えていた。
人がいなくなって初めて——ようやく、見つけることができた。
生きている。
呼吸をしている。
スチルでも、立ち絵でも、テキストの文字列でもない、生身のネイサンが、そこにいる。
心臓が、止まるかと思った。
比喩ではなく、本当に一瞬、呼吸を忘れた。
——黒髪に、冬の湖を思わせる青灰色の目。
ゲームのイラストよりずっと複雑な色味で、光の角度で濃紺にも見える不思議な髪。
顔立ちはこの国の人間とは少し異なる彫りの深さがあり、同い年の少年たちの中に混じると、明らかに異質だった。
なのに、何百人もの中に紛れたら、見つけることすらできなかった。
自分の存在を消すことに、あまりにも慣れすぎている。
ネイサンは、立ち上がるタイミングを計っているように見えた。人の流れが途切れてから、誰ともすれ違わずに出ていくつもりなのだ。
自分の存在が周囲に波風を立てることを、彼自身がよく分かっている。
その静かな気遣いに、胸が締め付けられた。
——ゲームのネイサンも、いつもこうだった。
教室でも食堂でも、人が引いてから動く。存在を消すように生きている。
それは、「ここにいていい」と言ってもらえなかった人間の所作だった。
でもそれは優しさの裏返しでもあると、私は知っている。
自分がいることで誰かが不快な思いをするなら、自分が引けばいいと、そう考える人間なのだ。
もちろん、ネイサンがここまで自分の存在を消そうとする理由は知っている。
敵国の人質だから、というだけではない。
ネイサンには、この国に来る前から、ある噂がついて回っている。
——幼い頃に、実の兄を殺した。
ルテティアの第二王子が幼くして亡くなった時、一緒にいたのがネイサンだった。
たったそれだけの事実が、「弟が兄を手にかけた」という噂にすり替わり、ルテティアの宮廷に広まった。
真相がどうだったのか、公式には語られていない。
ただ、ルテティア王家がネイサンを人質として差し出した背景には——外交の駒としてですらなく、「身内殺しの王子」を体よく厄介払いしたいという思惑があったと、まことしやかに囁かれている。
でも、私は知っている。
ゲームの本編では、この噂の真相に触れるテキストはない。
ネイサンは弁明もしないし、誰かが掘り下げてくれることもない。
何しろ攻略対象ですらないのだから、そこに容量を割く理由がない。
ただ一箇所だけ。
公式が何周年記念かにSNSに投稿した、設定資料の画像。
キャラクターの全身イラストと一緒に、細かい設定が書き込まれた資料が公開されたのだ。
奇跡的にネイサンの分も公開されたとあって、私は歓喜しながら画像を最大まで拡大し、隅に書かれた小さな文字まで一つ残らず読んだ。
すると、本当に隅の方に、薄い字でこう書かれていた。
「第二王子の死因は流行病。最期まで看病を続けたのは末弟ネイサンただ一人」
たった一行のメモ書き。
設定資料の隅に紛れ込んでいた、誰も注目しない小さな走り書きだった。
兄は病で死んだ。ネイサンは殺したんじゃない、最期まで寄り添っていたのだ。
周囲が感染を恐れて誰も近づかない中で、幼いネイサンだけが兄のそばにいた。
そしてその結果、殺人者の汚名を着せられた。
この一行を読んだ夜、私は二度目にティッシュの箱を使い切った。
そして、泣き終わった後に考えた。
兄殺しが嘘なら、この噂は誰が、なんのために広めたのか。
愛人の子であるネイサンが将来王位を脅かすことを恐れた王妃が、兄王子の病死を利用して噂を捏造し、国外に追い出した——ゲームの中のセリフや設定の端々を繋ぎ合わせていくと、そういう結論にしかならなかった。
だから今、まるで透明人間のようなネイサンを見て、私が感じたのは同情ではなかった。
——悔しさだった。
ゲームの時は、画面の向こうで泣くことしかできなかった。
でも今は違う。同じ空間にいる。同じ空気を吸っている。
やれることが、ある。
気づいた時には、足が動いていた。
ネイサンの列の、二つ隣の席に腰を下ろす。
一席分の空白は残した。いきなり真隣は、距離が近すぎる。物理的にも、心理的にも。
「…………」
ネイサンの視線が、横から突き刺さるのを感じた。
警戒されている。当然だ。
「兄殺し」の噂がある人間に自分から近寄る生徒など、普通はいない。何か裏があると思われて当たり前だ。
実際、ネイサンの青灰色の目には明確な拒絶が浮かんでいた。「こちらに来るな」と言外に告げている。
もし私がゲームの真実を知らなかったら、この目を見ただけで怯んでいたかもしれない。
冷たくて、硬くて、人を寄せ付けまいとする目だ。
でも——私には、この目の奥にあるものが見える。
怖がっているのだ。
私に敵意を持っているのではなく、私が自分を怖がるのではないかと、怖がっている。
また一人、自分を「人殺し」として見る人間が増えることが、恐ろしいのだ。
だから私は、彼の方を見なかった。
前を向いたまま、ほとんど空になった講堂をぼんやりと眺めた。
そして、一言だけ呟いた。
「……式典、長かったですね」
しばらく、沈黙が降りた。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
「……ああ」
短い返事だった。
声は低くて、少し掠れていて、警戒を完全には解いていない硬さがあった。
でも、返事をしてくれた。
追い払われなかった。無視もされなかった。
ゲームでは、初対面のキャラクターが話しかけても、ネイサンは何も返さなかった。
テキストには「……(ネイサンはこちらを一瞥しただけで、何も答えなかった)」としか書かれていなかった。
それが今、「ああ」と言ってくれた。たった一音。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「私はエルシィ・グランヴィルと申します。……もしよければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」
本当は知っている。全部知っている。
フルネーム、誕生日、血液型に相当するもの、好きな食べ物、ゲーム中で一度だけ言及された幼少期の記憶、処刑前の最後の台詞。全部。
でも、それらはただの文字の羅列に過ぎない。
だから、ちゃんと聞きたかった。
画面越しではなく、この人の口から、この人の声で。
「……ネイサン」
名前だけ。国名も、王子という肩書きも、何もつけずに。
そうだろうな、と思った。
自分を厄介払いした国の名前を、今更背負う気にはなれないのだろう。
だから、ただの「ネイサン」。
……ああ、ネイサン。
私はあなたの優しさを知っている。
しかし、その言葉を、今ここで伝えることはできない。
エルシィがそんなことを知っているはずがないのだから。
でも、いつか——いつか必ず、あなたの無実が証明される日が来る。
その日まで、私はここにいる。
「ネイサン様。よろしくお願いいたします」
私は、なるべく自然な笑顔で——たぶん少し目が潤んでいたかもしれないけれど——そう言った。
ネイサンは、ほんの一瞬だけ、怪訝そうに目を細めた。
「……ああ」
また、一音。
でも、さっきより少しだけ、声が柔らかかった——ような気がした。
気のせいかもしれない。推しに対する贔屓目かもしれない。
それでもいい。
入学式の講堂に差し込む午後の光の中で、ネイサンの黒髪が微かに青みを帯びて輝いていた。
その光景を胸の奥に丁寧にしまいながら、私は確信した。
——神様は私に推し活をさせるために、この世界に遣わしたのだと。




