第2話 草原の変異種
草原は、驚くほど平和に見えた。
風に揺れる緑の波。遠くで跳ねる青いスライム。空にはまだ赤みが残っているのに、足元だけは、いつもの初心者フィールドだった。
「ねえ碧依、チュートリアルクエストって、普通はスライム十匹とかだよね」
「だよな。変異種って何だよ」
視界の端で、タイマーが減っていく。残り六分。
そのとき、草原の奥から悲鳴が聞こえた。
「うわあああ! 来るな、来るなぁ!」
三人のプレイヤーが、こちらへ必死に走ってくる。その背後の地面が、ドン、ドンと震えていた。土煙の向こうから姿を現したのは、小山のような猪だった。
体長は四メートルはある。毛並みは黒く、背には赤い亀裂のような模様が走っている。牙は、人の腕ほどの太さだ。
頭上に、名前が浮かんだ。
【ブラッドボア・変異種 Lv.12】
「レベル12!? 初日だぞ!」
「碧依、あの人たち、レベル1だよ!」
彩葉の声に、碧依は迷わなかった。
「彩葉、俺が前に出る! 援護頼む!」
「ちょっ、待って、作戦は!?」
「走りながら考える!」
「それ作戦って言わないから!」
文句を言いながらも、彩葉はもう駆け出していた。
碧依は双剣のうち、右の剣だけを抜いた。左の剣は、やはり鞘から動かない。
(片方だけで、やるしかない)
碧依は走った。逃げてくる三人とすれ違う。一番後ろの青年が足をもつれさせて転んだ。猪の牙が、その真上に迫る。
「させるかッ!」
碧依は跳んだ。石畳の上で何度も確かめた脚力が、いまは地面を砕くように爆ぜる。右の剣が、牙の側面を弾いた。
ガキィン、と火花が散る。
「立てるか! 走れ!」
青年は涙目でうなずき、仲間のほうへ這うように逃げた。
猪の赤い目が、碧依に向いた。
「……来いよ」
猪が突進した。速い。碧依は横へ跳んで避けたが、風圧だけで体が浮く。着地した瞬間、猪は急停止して、牙を横に振り抜いた。
「ぐっ!」
右の剣で受ける。それでも体ごと吹き飛ばされ、草の上を転がった。HPバーが、一気に三割削れる。
「碧依!」
「大丈夫だ! まだ動ける!」
立ち上がりながら、碧依は気づいた。痛みが、ある。腕がしびれて、息が詰まる。
(これが、命を賭けるってことか)
「碧依、聞いて!」
彩葉が横から叫んだ。猪の周りを、細剣で牽制しながら回っている。ひらり、ひらりと、まるで踊るような動きだった。
「あいつ、突進のあと必ず一瞬止まる! 右の脇腹、毛が薄い! そこが弱点っぽい!」
「分かるのか!?」
「見てれば分かるよ! 観察は得意なの!」
彩葉はにっと笑った。その額には、汗が光っていた。
(怖いはずなのに、あんなに冷静に……)
碧依は剣を握り直した。
「彩葉、俺が気を引く。突進のあとの停止で、脇腹を刺してくれ」
「了解! 外したらごめん!」
「外すなよ!?」
「頑張る!」
碧依は猪の正面に走り込んだ。わざと大きく声を張る。
「こっちだ、デカブツ!」
猪が咆哮した。突進。碧依は真横に跳ぶ。巨体が風を巻いて通り過ぎる。そして、急停止。
「今だ、彩葉!」
「はあああっ!」
彩葉のレイピアが、閃光のように走った。猪の脇腹に、三連続の突き。
ギャアアッ、と猪が悲鳴をあげた。HPバーが、ごっそり減る。
「効いた!」
「やった! ……あ」
彩葉の笑顔が凍った。
猪の背の赤い亀裂が、ぼう、と光りだしたのだ。
【変異種:第二形態】
地面が割れた。猪の全身から赤黒い衝撃波が放たれ、周囲の草が一斉になぎ倒される。
「ぐあっ!」
「きゃあっ!」
二人は同時に吹き飛んだ。碧依のHPが、残り二割を切る。
視界の隅で、タイマーが三分を切っていた。
(まずい。このままじゃ、やられる)
そのとき、猪の視線が、倒れたまま動けない三人組のほうへ向いた。先ほど逃げ遅れた青年たちだ。
「やめろ……!」
猪が走り出す。碧依は立ち上がった。足がもつれる。それでも、走る。
(走れる。俺は、走れるんだ!)
走りながら、碧依は無意識に、左の剣の柄へ手を伸ばしていた。
熱い。
柄が、焼けるように熱かった。それでも、鞘は動かない。
「くそっ、なんで抜けないんだよ!」
一瞬の迷い。その隙に、猪は三人の目前へ迫っていた。
「彩葉! 頼む!」
「分かってる!」
彩葉が横から猪の目を狙って、レイピアを突き出した。刃が眼球をかすめる。猪が仰け反った。
その瞬間、碧依は跳んだ。猪の背に飛び乗り、赤い亀裂へ右の剣を突き立てた。
「うおおおおっ!」
亀裂が砕ける。猪が最後の咆哮をあげ、全身から光があふれた。
爆発。
静寂。
碧依は草の上に倒れていた。空を見上げる。赤みの消えた、青い空だった。
【クエスト達成:草原の異変】
【経験値を獲得しました】
「……勝った……?」
「勝ったよ、碧依!」
彩葉が笑いながら駆け寄ってきた。目に涙が浮かんでいる。
「やった! 二人で倒したんだよ!」
「ああ。助かった、彩葉」
碧依は、助けた三人のほうを見た。
「みんな、無事か?」
二人の青年が、腰を抜かしたまま、こくこくとうなずいた。もう一人は、少し離れた場所に座り込んでいる。
「……あれ?」
その青年が、自分の胸元を見下ろした。
「おかしいな。さっきから、HPが……」
彼の頭上に、赤いバーが見えた。ほとんど、ゼロに近い。
「毒だ!」
彩葉が叫んだ。
「衝撃波と一緒に、毒を受けてる! 解毒ポーション、誰か持ってる!?」
碧依はポーチを漁った。初期のポーションはある。でも、解毒薬はない。
「俺、ない! 彩葉は!?」
「あたしも……ない……」
「大丈夫、大丈夫だから!」
碧依は青年の手を握った。
「街まで走る! 俺が背負っていく!」
「……ありがとう」
青年は、弱々しく笑った。
「君、足、速いんだね。……かっこよかったよ」
「喋るな! 行くぞ!」
碧依は青年を背負って、立ち上がった。走り出す。草原を、街へ。間に合え、間に合え、と心の中で叫びながら。
背中の重みが、ふっと軽くなった。
ゴォォォン。
鐘が鳴った。
空に、光の文字が浮かぶ。
【ミヤモト ユウ】
碧依は、足を止めた。止まるしかなかった。背中には、もう誰もいなかった。
「……う、そだ」
膝から崩れ落ちた。守れなかった。目の前で、助けると言ったのに。
「碧依……」
彩葉が、後ろから静かに歩み寄った。その手には、あのノートがあった。彩葉は震える指で、ペンを走らせる。
「ミヤモト、ユウ、さん」
声が、かすれていた。
「……ごめんなさい」
「彩葉が謝ることじゃない。俺が、遅かった」
「ううん、違うの」
彩葉は、首を横に振った。そして、碧依にも聞こえないくらい小さな声で、つぶやいた。
「これで、二人目。……順番通り」
碧依の背筋が、凍りついた。
「……彩葉。今、なんて言った?」
彩葉は、はっと顔を上げた。笑顔を作ろうとして、失敗した。




