第1話 走れる足と、名前の鐘
碧依は、走っていた。
石畳を蹴るたびに、風が耳元で鳴る。足が地面を離れ、また着く。ただそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなって、視界がにじんだ。
(走れてる……俺、走ってる)
現実の碧依は、五年前から車椅子の上にいる。十一歳の冬の事故以来、両脚は動かない。
だから新作VRMMO『アーク・リベリオン』の抽選に当たったとき、最初に浮かんだのは「遊びたい」ではなかった。「もう一度、走りたい」だった。
始まりの街〈ルミナ〉の中央広場。サービス開始から三十分、碧依は用もなく広場を三周していた。腰では、初期装備の双剣が軽く揺れている。右の剣は手に吸いつくようだが、左の剣はなぜか鞘から抜けない。
(バグかな。まあいいや。今日は走れるだけで十分だ)
息を弾ませながらメニューを開いた碧依は、そこで指を止めた。
ログアウトの項目が、ない。
周りでも、同じざわめきが起き始めていた。ログアウトできない、GMコールも繋がらない、と誰かが叫ぶ。
そのとき、ゴォォォン、と巨大な鐘の音が空から降ってきた。晴れていた空が、血のような赤に染まる。広場の中央で黒い霧が渦を巻き、中から一人の男が現れた。
白い仮面は、左半分が笑い、右半分が泣いている。赤と黒の道化師の衣装をまとった男は、両手を広げた。
「ようこそ、プレイヤーの皆様。私は鐘守。この世界の鐘を鳴らす者です」
広場が静まり返る。
「ログアウトは不可能。戻る方法はただ一つ、最上層である第百層のボスを倒すこと。そしてHPがゼロになった方は、現実の肉体も、死にます」
誰かが笑った。冗談だろ、と。鐘守は気にも留めず、仮面の下から言葉を続けた。
「死者の名は、この鐘が空に刻みます。皆様、お互いの名前を、どうぞ大切に」
霧とともに、道化師は消えた。数秒の沈黙のあと、悲鳴が爆発した。
泣き叫ぶ者、座り込む者、出口を探して走り回る者。その中から、一人の男が街の南門へ駆け出した。
「ふざけんな! 俺は帰る! 外に出れば何か――!」
「待て! 門の外は――!」
碧依は叫んでいた。考えるより先に、足が動いていた。
石畳を蹴る。風を切る。さっきまで嬉しくて走っていた足が、今は誰かを止めるために走っている。それでも間に合わなかった。男の背中が、門の向こうへ消える。
直後、獣の咆哮と、短い悲鳴が響いた。
ゴォォォン。
空に、光の文字が浮かんだ。
【タカハシ ケンジ】
文字は一度だけ瞬いて、消えた。
碧依は、門の手前で立ち尽くした。膝が震えた。本当に死んだ。名前一つ残して。
そのとき、泣き声が聞こえた。振り向くと、小さな少年のアバターが、同じ門へふらふらと歩いていくところだった。
「パパが……パパがいる……」
少年の目には、何も映っていない。
「おい、行くな!」
碧依は少年の腕を掴んで、思い切り引き戻した。
「離して! パパのところに行くんだ!」
「分かってる。怖いよな。でも、行ったらお前まで空に名前が出るんだぞ!」
暴れる少年を、碧依は両腕で抱きしめた。小さな体が震えている。
「俺も怖い。足が笑ってる。でも、ここで諦めたら、全部あいつの思う壺だろ」
少年の力が、ゆっくり抜けていった。
「……ありがとう。偉いよ、君」
背後から声がした。
黒髪のショートボブに、細身のレイピア。同い年くらいの少女が、息を切らして立っていた。顔色は青いのに、口元だけは笑っている。
「あたし、彩葉。さっきの人、止めようとして走ったんだけど、あなたのほうが速かった」
彩葉は少年の前にしゃがんで、にっと笑いかけた。
「お名前、教えてくれる?」
「……リク」
「リクくんね。ばっちり覚えた。お姉ちゃんが、教会まで連れてってあげる」
教会のシスターNPCに少年を預けると、二人は広場の端のベンチに座った。彩葉は腰のポーチから小さなノートを取り出し、ペンを走らせる。
「何書いてるんだ?」
「名前。さっきの、タカハシケンジさん。それとリクくん」
「死んだ人の名前も?」
「うん。全員覚えるって、決めてるから」
彩葉は顔を上げて、さっきと同じ笑顔で言った。
「ねえ、あなたの名前は?」
「碧依だ」
「碧依。いい名前。……ねえ、これからどうするの?」
「前に進む。第百層まで」
彩葉の手が止まった。
「本気で? 死ぬかもしれないんだよ?」
「分かってる。でもな」
碧依は、自分の足を見下ろした。
「俺、現実では歩けないんだ。五年前から車椅子。ここに来て、初めて走れた。だから怖いより先に、嬉しかった。……最低だろ、人が死んでるのに」
「最低じゃないよ」
即答だった。彩葉は、まっすぐに碧依を見ていた。
「それでも、碧依は止めようとして走った。それでいいと思う」
「……帰ったら、また歩けない。でも、帰りたい。俺が走れても、泣いてるリクはパパに会えない。そんなの、嫌だ。走れる俺が先頭に立つ。全員、連れて帰る」
一瞬の沈黙。彩葉は、ふっと息を吐いて笑った。
「……あはは。やっぱり、そうなんだ」
「やっぱり?」
「なんでもない! じゃあ、あたしも行く。パーティ組もう、碧依!」
差し出された手を、碧依は握った。温かかった。
「よろしくな、彩葉」
「うん。さっきの名前、書いちゃうね。碧依、碧依……」
彩葉はノートを開いた。ページをめくる指が、ふと滑る。
はらり、と一番最初のページが開いた。
碧依は見てしまった。
びっしりと並んだ名前の、一番上。
そこには、色あせたインクで、確かにこう書かれていた。
『碧依』
どう見ても、今日書いた字ではない。インクは乾ききって、何年も前に書いたように褪せている。
彩葉は慌ててノートを閉じ、いつもの笑顔で言った。
「ほら、行こ! 草原でレベル上げしなきゃ!」
碧依は、その笑顔の裏に、初めて何かを見た気がした。
(……あのノート、いつから?)
ゴォォォン。
空で、また鐘が鳴った。




