第9話 寛子の報告
坂本寛子と会う約束をしたのは、孝幸のアパートの前で待ち伏せをした翌々日のことだった。寛子は、父親が秘書の女性に産ませた子供だ。まだ認知されていない。だが、由佳の腹違いの妹ということになる。
寛子は由佳に頼まれ、自分の出生の秘密を知らせずに、孝幸の個人事務所に秘書として働いていた。
待ち合わせ場所は、孝幸の事務所からほど近い、駅前にある小さなカフェだった。寛子が指定してきた店で、由佳は来たことがなかった。入ってみると、壁に観葉植物が並び、照明が低く抑えられていた。寛子らしい店の選択だと由佳は思った。寛子は昔から、こういう少し暗くて居心地のよい場所を好んだ。人の目を避け、静かに自分の思いを沈められる場所を。
寛子はすでに来ていた。窓から離れた隅の席に座って、両手でカップを包んでいた。由佳が近づくと顔を上げた。
「来てくれてありがとう」
「呼ばれたから来ただけよ」
由佳は向かいに座ってコートを脱いだ。店員を呼んでコーヒーを注文した。
寛子は由佳の顔をしばらく見ていた。探るような視線だった。
「疲れてる?」
「別に」
「そう」
それ以上は聞かなかった。由佳の内心を測りかねている様子が、由佳にはわかった。
コーヒーが来た。由佳は一口飲んだ。さきほどの克己の事務所のお茶より、こちらの方が由佳の好みだった。
寛子は由佳の目を見た。
「報告があるの」
「聞かせて」
「孝幸さんに、妊娠のことを話したわ」
由佳はカップを置いた。
「いつ?」
「昨日」
寛子は心配そうな顔をした。
「姉さんに言えって言われたから」
「それで?」
「産むかどうかはお前が決めろ、俺は責任を取るって」
寛子の声が少し低くなった。
「それだけだった」
「そう」
「冷たいと思う?」
「いいえ」
由佳は真剣な表情で寛子を見た。
「あの男らしい言い方だわ。責任を取るというのは本気よ」
寛子はしばらく黙っていた。カップを両手で包んだまま、テーブルの一点を見ていた。
由佳は、寛子が今、何を考えているのかを想像した。認めてほしいという願いと、孝幸への想いとが、複雑に絡み合っているのだろう。
「姉さん」
寛子は顔を上げた。
「何?」
「由美姉さんのこと、どうするつもりなの」
寛子は顔を近づけた。
「孝幸さんを使って、それで終わり?」
「由美を病院から出す」
由佳は寛子の視線を避けながら言った。
「それだけよ」
「そのためだけに孝幸さんを利用するの?」
由佳は答えなかった。コーヒーを飲んだ。胸の奥で、由美の顔がちらりと浮かんだ。守らなければならないという、長い年月で固められた義務感が、静かに疼いた。
「姉さんは昔からそうよね」
寛子は露骨に不満そうな表情を浮かべた。
「全部自分で決めて、全部自分で抱えて、誰にも何も言わない」
「それのどこが悪いの?」
「孤独でしょ?」
「慣れているわ」
寛子が由佳を見た。由佳は窓の外を見ていた。
「私ね、ずっと神崎家に認めてほしかったの。姉さんに、姉妹として扱ってほしかった」
「知っている」
「でも今は、それより孝幸さんのことの方が大事になってしまった」
由佳は窓の外から視線を戻した。寛子を見た。
「わかった」
「何がわかったの?」
寛子の声が少し高くなった。
由佳は少し間を置いた。
「あなたが本気だということが。それで十分よ」
「私は家や会社より、孝幸さんを取るわ」
「分かってる」
「孝幸さんを連れてどこかに行くという意味よ」
寛子は低く厳しい口調で言った。
「分かってる」
「本当に?」
「あなたを、うちの両親に認めさせる。そして、あなたは孝幸の側にい続けることができるようにする」
由佳は鋭い視線を寛子に向けた。
「これが条件よ。十分でしょ?」
「本当にできるの、そんなこと?」
寛子の声があからさまに高くなった。
「由美姉さんは潔癖症で、そんな融通の利く性格じゃないわよ。そもそも、孝幸さんを追い出して離婚したのも、由美姉さんが神経質でヒステリックだからでしょ?」
「分かってるって言ってるでしょ!」
珍しく、由佳が声を荒げた。胸の奥で、由美を守るという執着が、熱を帯びて疼いた。
「あなたは、いつも由美さんのことになると見境がなくなる」
寛子は無表情で言った。それから、初めて少し笑った。
「そうかしら?」
「そうよ」
寛子は口元に皮肉な笑顔を浮かべた。
「妹思いなのね」
由佳は何も言わなかった。コーヒーを飲み干した。カップを置いて、窓の外をもう一度見た。孝幸の事務所はここから見えない。由佳にはわかっていた。それでも由佳は、しばらく同じ方角を見ていた。胸の奥で、由美の顔が再び浮かび、静かに疼いた。
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