第7話 依頼
「今回は衝動的な自殺じゃなかったのよ」
由佳が孝幸の目を見た。
「そうか」
孝幸に声に感情の揺らぎはほとんどなかった。
由佳は小さく微笑んだが、その目は冷ややかだった。
「興味がなさそうね」
「ああ、全く興味がない」
孝幸は即座に答えた。
「関わりたくないね。内容は言わなくていいよ」
「そうはいかないわ」
由佳の声は静かだが、確固たる意志が込められていた。
「今日は遺書の話をしに来たのよ」
孝幸はわずかに眉を寄せた。面倒くささと警戒が、同時に浮かび上がる。
「俺のことが書かれていたのか?」
「そうよ」
由佳は間を置かずに続けた。
「あなたに申し訳ないって」
「それなら、気にするなって言ってやってくれ」
孝幸は乾いた声で言った。
「今、俺はもう十分楽しく暮らしているとな」
由佳の次の言葉は、孝幸の予想を超えたものだった。
「それから、資産のすべてをあなたに譲ると書いているわ」
孝幸はコーヒーカップを持ち上げかけた手を、ぴたりと止めた。初めて、表情に明確な動きが走った。
「何だって……そうか」
彼は短く息を吐き、ゆっくりとカップをテーブルに戻した。
「それであんたたちが血相を変えて俺に会いに来たのか」
「そうよ」
「なるほどね」
孝幸の唇に、皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「ようやく合点がいったよ」
由佳は身をわずかに乗り出した。計算された柔らかさの中に、切実さが滲む。
「困るのよ、これじゃあ」
「そうだろうな」と孝幸は言った。「だが俺は、あんたたちに関わるのは御免だ。幸い、由美は生きている。俺が相続することはない。せいぜい、由美と仲良くするんだな」
「そうはいかないわ」
由佳の声が少し鋭くなった。
「あの子にへそを曲げられたら困るの。それに、今のままではまた自殺する可能性が高いわ」
孝幸は静かに由佳を見つめ返した。その目に浮かぶのは、哀れみでも怒りでもなく、ただの冷めた拒絶だった。
「そんなことは俺の知ったことじゃない」
「由美の病室に来てくれるだけでいいのよ」
「嫌なものは嫌だ」
「それ相応のお礼はするわ」
由佳の目が細められる。
「来てくれなければ、いつまでも付きまとうわよ」
二人はしばらく、テーブルを挟んで無言で見つめ合った。空気は張りつめ、微かな緊張が漂う。由佳の瞳には執念に近い光が宿り、孝幸の目はただ深い倦怠と醒めた諦観だけを湛えていた。
「今日のところは帰る」
孝幸は静かに立ち上がった。
「返事は明日でもいいか?」
「構わないわ」
由佳は微笑んだ。
「ただし明日以降は毎日伺うわよ」
孝幸は会計を済ませ、出口に向かった。咲奈の横を通り過ぎるとき、彼は前を向いたまま歩き続けた。一度も咲奈の方を見なかった。そこに誰か座っているなど、最初から考えていないかのように。
ドアが静かに閉まった。
「叔母さん」
咲奈が小さな声で言った。
「何?」
「叔母さんって、ひどい人ね」
蚊の鳴くような小さな声だった。
「今さら、何言ってるの?」
「私、やっとなぜお母さんが自殺しようとしたかわかった」
咲奈が顔を上げ、由佳の顔を見た。
「よかったわね」
由佳はぶっきらぼうに答えた。
「ふざけないで!」
由佳は、咲奈が声を荒げるのを初めて見た。わずかに眉を寄せ、意外さの色を浮かべたが、すぐにいつもの冷ややかな視線に戻す。
「私、お母さんが自殺したとき、慌てて救急車を呼んだ。動揺して誰に頼っていいのか分からなかった」
咲奈は珍しく、自分の心の内をそのまま言葉にした。
「それで、病院の人に私の電話番号を教えたの?」
由佳は面倒くさそうに呟いた。
「そうよ。だけど今、すごく後悔してる」
咲奈は唇をかみ、由佳の目を見つめた。
「私、叔母さんと、もう二度と口を利かないわ」
「好きにしなさい」
由佳は窓の外に視線をやりながら答えた。すでに次の手を、冷静に考え始めている様子だった。
「来なければ、別の手を考えるまでだわ」
由佳の指がテーブルの上で軽く動き、まるでチェスの次の駒を置く位置を定めているかのようだった。
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