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第4話 再婚

 席を立とうとして腰を浮かせかけた孝幸に、由佳は静かに声をかけた。


「待って」


 孝幸の動きが止まる。わずかに苛立ちを含んだ視線が、テーブルの向こう側に向けられた。


「今のは前置きよ。もう少し詳しく話すわ」


「なぜ勿体(もったい)つける?」


 孝幸の声は低く、ほとんど抑揚がなかった。


 由佳は小さく息を整えた。指先がテーブルの縁を軽く撫でる。この男の前では、いつもの計算高さがどこかぎこちなく感じられる。


「あなたがだらだらした話を嫌うのは知っているから、順序立てて話しているの。それにさっきのは、表向きの話。ここからが本題よ」


「俺には関係のない話だろう」


 すでにこの場から逃れたいという意志が、言葉の端々に滲み出ている。


「あるわよ」と由佳は即座に返した。声は穏やかだが、目には微かな決意の色が宿っていた。「由美があなたを初めてうちに連れてきたとき、あなたを、家の資産を狙っている男だと思ったわ」


 孝幸は無表情のまま、短く答えた。


「そうか」


 由佳は続けた。告白めいた言葉を一つずつ、慎重に置いていく。


「それまで由美の周囲には、自称起業家やら女たらしが多かったから。あなたには近づいてほしくなかった。だから、あなたが由美を寝取った資産目当ての男だと、咲奈(さきな)に吹き込んだの。……ごめんなさい。この子は何も悪くないわ」


 孝幸は小さく息を吐いた。それは嘲りとも溜息ともつかない、乾いた音だった。


(こいつはもう、名実ともに他人だ)


 そう胸の中で呟きながら、彼は咲奈を一瞬だけちらりと見た。元義理の娘の顔を真正面から見ることはなかった。視線はすぐにテーブルに戻り、冷えたコーヒーカップの縁に留まる。そこには、かつての情も、怒りも、すでに薄れていた。ただ、乾いた諦念だけが静かに沈殿している。


 由佳は静かに続けた。過去を語る声は、どこか遠い出来事のように平坦だった。


「由美の最初の夫は、父の会社の大事な取引先の社長の息子だった。岡山家のあのドラ息子が、どうしてもと言い寄ってきて。由美は嫌がっていたけれど、父は取引先の顔を立てて説得したの」


「その話は聞いたことがある」


 孝幸は興味はなさそうだったが、耳は傾けている。


 由佳は静かに頷き、言葉を続けた。


「五年ほどでドラ息子に女ができた。その後しばらくして、由美は咲奈を連れて岡山家を追い出される形で離婚した。それからしばらく由美は家に引きこもっていたわ。ほとんど部屋から出ず、食事もろくに取らない日々が続いた。でも次第に外に出られるようになり、ある日、あなたを連れてきた」


「なるほど」


 孝幸の声には、感慨らしいものはほとんど感じられなかった。ただ、事実を一つ確認したというだけの響きだった。


 由佳はわずかに視線を落とした。指先がテーブルの上で小さく動き、すぐに止まる。この先をどう切り出すべきか、慎重に計っている様子だった。


「あなたは由美の大学時代の同級生で、サークルも一緒だった」


「ああ、そうだ。サークルではあんたも一緒に活動していただろう」


「そうだったわね。だけどあなたたち、付き合うほど親しくはなかったはずよ」


「ああ。由美は美人で賢くて、その上お嬢様だった。俺には高嶺の花さ。同窓会で隣に座らされた次の日に、家に連れていかれたよ。婚約者だって言うんだ」


 孝幸はそこで軽く肩をすくめ、乾いた苦笑を浮かべた。その笑みには、過去の自分に対する嘲りと、事の成り行きに対する諦めが混じっていた。


「知らなかったわ」

 声がわずかに低くなる。


「うぶだったよ。地獄が待っているとも知らずにね」

 孝幸の言葉の端に、自嘲の色が濃く滲んだ。


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