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第36話 婚約

 演奏の当日だった。


 神崎家の応接間には、すでに楽器が並べられていた。由佳は窓辺に立ち、外の光を眺めていたところへ、咲奈が入ってきた。咲奈の腕には、寛子が出産した孝幸の子供が抱かれていた。生後間もない赤子は、静かに眠っている。


 咲奈は皮肉な表情を浮かべて、由佳を見た。

「ご婚約、おめでとうございます」


「ありがとう」

 由佳は素直に答えた。


 予想外の返事に、咲奈は一瞬、目を丸くした。


「伯母様、結婚したら仕事はどうするの?」


「結婚はしないわ。婚約しただけよ。だから仕事は今までのまま」


 咲奈は顔をしかめた。

「まだお父さんに執着しているの?」


「仕事を続けるだけよ」


「嘘つき」


 由佳は咲奈の方へゆっくりと向き直り、優しい顔を向けた。いつもの冷たい仮面ではなく、穏やかな表情だった。


「何が気に入らないの?」


「伯母さんの、その幸せそうな顔が気に入らないわ。本当は悪人のくせに」

 咲奈が悪態をつく。声には、はっきりとした敵意が混じっていた。


「あなたの可愛い子ぶった演技のほうが気持ち悪いわ。孝幸が気味悪がってるわよ」


 咲奈はそっぽを向いた。赤子を抱いたまま、少し肩をすくめるようにして視線を外す。


 しばらく沈黙が続いたあと、咲奈が小さく呟いた。


「ありがとう」


「何よ、気持ち悪い」


「ちゃんとお父さんが帰ってきてくれた」


 由佳は鋭い目で咲奈を見た。

「もう、逃げられないようにしなさい」


「分かってるわ」

 咲奈は由佳と目を合わせた。


 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。康介と澄子、そして由美の声が聞こえる。部屋のドアが開く気配とともに、二人の会話は自然に打ち切られた。


 由佳は窓の外に視線を戻した。咲奈は赤子の頭をそっと撫でながら、静かにその場に立っていた。


 演奏まで、まだ少し時間があった。


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