第33話 交渉成立
「どこへ行く気?」
由佳は、病室を出ていこうとする孝幸の腕をつかんだ。
「俺はあんたたちとこれ以上関わるつもりはない。帰らせてもらう」
孝幸の声は低く、疲労がにじんでいた。
「何が気に入らないの? 由美が受け取った離婚の慰謝料はすごい額だったのよ。あなたが由美と再婚すれば、その財産を好きにできるわ」
「あんたたちの家族になるつもりはない。前の結婚でうんざりしてるんだ」
「あの時のようにはならないわ。あなたのことを大切にすると約束するから」
「そんな言葉が信用できないんだよ」
孝幸の声の端に、疲れと苛立ちが混じっていた。
「気に入らなかったら、また離婚してもいいわ。それから、結婚してくれたらすぐに由美の財産の半分をあなたの名義にしてもいい」
「なぜそこまで俺にこだわるんだ。他にも解決方法があるだろう」
「他の解決方法って? どんな?」
「由美を薬漬けにして動けないようにしておけばいいだろう」
孝幸の声は冷たく、しかしどこか自嘲めいていた。
「わたしたちを何だと思ってるの? 悪魔じゃないのよ」
「悪魔じゃなけりゃ何だよ?」
「ひどい言い草ね。説明するわ。もう少し事情があるのよ」
「やはりか……」
孝幸の声には諦めが滲んでいた。
「入って」
由佳が病室の外に向かって声をかけた。
スーツ姿で黒縁の眼鏡をかけた背の高い女性がドアを開けて入ってきた。
「絵里子!」
孝幸の顔に驚きが浮かんだ。
「秋田絵里子は偽名よ。本名は坂本寛子、父が秘書に産ませた子供なの。つまり、由美と私の腹違いの妹」
寛子は孝幸の隣に立って、孝幸の右腕を抱えた。
「嘘をついて、ごめんなさい」
寛子の声がわずかに震えていた。
「なぜそんなことを……」
孝幸の声に戸惑いが強く表れていた。
「由佳姉さんに頼まれたの、様子を見て来いって」
「なぜ身内にそんなことをさせるんだ?」
「身内でなければできないでしょ。あなたはうちの会社と家庭の事情を知っていたから、野放しにできなかったの。だけど予定より寛子があなたに深入りしすぎて計算が狂ったのよ」
「孝幸さん、私本気よ」
寛子は孝幸の腕をぎゅっとつかんだ。
「どこにも行かないで」
「なぜ本当のことを言ってくれなかったんだ」
孝幸の声に、傷ついた響きが混じっていた。
「ごめんなさい。私、あなたとの関係を壊したくなかったの」
寛子の声は弱々しく、どこか追い詰められた響きがあった。
「寛子が私に交渉に来たのよ。あなたとの仲を認めろって」
由佳は淡々と続けた。
「こんな女に認められなくってもいいだろう」
孝幸は寛子に向かって、冷たく言い放った。
「寛子は父に認知されていなかったのよ。だからあなたが由美の夫だったときも紹介されてなかった。かわいそうでしょ?」
「だが、俺が由美と再婚してもいいのか?」
孝幸は由佳の方を見た。
「いいのよ。そのほうが都合がいいの」
「どういうことなんだ?」
孝幸の声に、戸惑いが強く混じった。
「子供ができたのよ。相談したでしょ」
寛子が小さく答えた。
「そうだったな……」
「あなたは私たちの身内になるしかないっていうことよ。あなたが由美と再婚して寛子の子供を認知してくれれば、すべて丸く収まるわ」
由佳は静かに説明した。
「ひどい解決策だ」
「唯一の解決策よ」
由佳の声は、冷たく揺るがなかった。
「だが、俺は誰も信じられないよ。だれも本当は俺のことなんて好きじゃないんだろう?」
「この期に及んで、まだそんな戯言を言うの?」
由佳は咲奈に視線を送った。
「お父さん、わたしはお父さんのことが大好きです!」
孝幸の後ろから咲奈が抱きついた。
「俺のこと、嫌っていただろう?」
「お父さんと暮らしていたときが一番幸せでした。本当です!」
咲奈の声は、震えていながらもはっきりとしていた。
「あの時、私があなたに会いに行くって聞いて、自分でついてきたのよ」
「なぜだ?」
「わからないの? あなただけよ、この子を娘として育てたのは」
「実の父親はそんなにひどい男だったのか?」
「そうよ。一回目の離婚のときは新しい妻との生活に邪魔になるからって追い出されて、出戻り婚の後は由美と一緒に虐待されていたの。こう見えて苦労してるのよ」
「だが俺は……」
「泣いてるわよ、この子」
「わかっている。だが、ひどい茶番だ……」
孝幸は下を向いてため息をついた。
「まだ不満があるのかしら?」
「いや、不満はないが……」
「君が由美と結婚して神崎家を継いでくれるというのなら、私の財産をすべて君に託す。すぐに法的な効力のある文書の作成を約束する」
康介は一歩前に出て孝幸に頭を下げた。
「どうかよろしく頼みます」
由佳が孝幸の正面から顔を近づけた。
「私も約束するわ。あなたのために何でもする。秘書でもメイドでも愛人でも奴隷でも、何でも構わないわ」
「もう、わかったよ」
孝幸はうつむいた。
由佳は由美に向き合った。
「これでよろしいでしょうか、女王様」
由佳は仰々しく頭を下げた。
「交渉は成立よ。ご苦労だったわね、由佳姉さん。これからもよろしく頼むわ」
由美は真顔で言った。
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