第31話 病室の対話
由佳が孝幸を連れて病室に入ると、ベッド脇にいた康介と澄子が同時に顔を上げた。由美は孝幸を見て、一瞬だけ表情が動いた。それから、すぐに冷たい仮面に戻った。
「何の用」
由美が冷たく言った。
言葉は孝幸に向けられていたが、声には由佳への苛立ちが混じっていた。
孝幸は戸惑った様子で、入り口で立ち止まった。由佳はその背中をそっと押し、孝幸と腕を組んだ。孝幸は二、三歩、由美のベッドに近づいた。その足取りには、明らかに抵抗の気配があった。
「いつから姉さんと孝幸は、そんなに仲良くなったのかしら」
皮肉な口調だったが、声の端にわずかな震えが感じられた。
「あなたが死ぬなら、私がこの人と結婚することにしたの」
由佳は孝幸と腕を組んだまま言った。
「本当なの?」
由美は孝幸の方を見た。目には疑いと、どこか傷ついた色が浮かんでいた。
「そんなわけないだろう。こんな蛇みたいな女と結婚するくらいなら、俺が死ぬ」
孝幸は低い声で、はっきりと言った。
由佳は軽く肩をすくめた。
「冗談よ。私だってお断りだわ」
由美がくすりと笑った。自殺未遂の後に初めて見せる笑顔だった。由佳はそれを見て、胸の奥でわずかに安堵した。しかしその安堵はすぐに、冷たい理性に押し戻された。由美の笑顔に予想外の温かさが感じられ、由佳はわずかに苛立った。
「改めて聞くけど、それで何の用?」
「せっかく貢物を持って参上したのだから、もう少し情けをかけてくださいまし、女王様」
由佳の声には、わざとらしい丁寧さが混じっていた。
「貢物って、孝幸のこと? 失礼よ」
「ご無礼をお許しください、女王様。お気に召さないようでしたら、持ち帰ります」
「孝幸は物じゃないって言っているのよ」
「私にとっては、取引の道具よ」
由佳は淡々とそう答えた。
「取引なんてしないわ」
「あなた、目が覚めてから初めてちゃんとしゃべってくれたじゃない。それだけでも、この男を連れてきた価値はあるわ」
「そんな姉さんが大嫌い」
「私はきれいごとが嫌いなの。あなたみたいに、嫌なことから顔を背けて生きる人間も嫌いよ」
由佳の言葉は、冷静で容赦がなかった。
「姉さんは孝幸と私を騙したのよ。許せない」
「騙されたのは、あなただけよ。この人はすべてわかっていたから」
「被害者という意味よ」
「この人は私に騙されたから出て行ったんじゃないわ。あなたの愚かさに愛想を尽かして出て行ったのよ」
病室の空気が、一段冷えた。
康介と澄子は黙って見ていた。
「責任転嫁よ。全部姉さんが仕組んだことじゃない」
由美の声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「あなたがこの人を信じていたら、出ていかなかったはずよ」
「騙しておいて、なによその言い草!」
由美の声が、わずかに上がった。
「あんな茶番に騙されるなんて思ってなかったから、こっちがびっくりしたわ。かまととぶった女性社員の下手なウソ泣きを本気にしてたなんて、笑っちゃうわよ」
「ひどいわ」
由美が小さくつぶやいた。声は弱々しく、むき出しの傷がうずいているようだった。
「そもそもこのヘタレ男が、関連会社の女性社員なんて襲うわけないじゃない。それに、この人が必死で身の潔白を説明していたのを、あなたが全部否定したのよ。何をいまさら被害者ぶってるの?」
「姉さんは自分が悪いとはちっとも思ってないのね。てっきり謝るために来たのだと思ったわ。私を貶めるために来たのなら帰って!」
「私はあなたに謝りに来たんじゃないわ。さっきも言った通り、交渉に来たのよ」
由佳の声は、冷たく平坦だった。
「交渉は決裂よ。もう帰って!」
「孝幸を連れて帰るわよ。それでもいいの?」
「孝幸は物じゃないわ。私が頼めばここにいてくれる」
「そうかしら。試してみる? 賭けてもいいけど、この人は私がいなければ気まずくなって三十秒で帰るわ」
「そうかしら?」
由美は静かに問い返した。
「ええ、この人はあなたのことをまだ許してないわ。それどころかあなたの気持ちを今でも疑ってる。その上、連れ子の咲奈を毒蜘蛛みたいに嫌ってるのよ。戻ってくると思って?」
「私は誠心誠意謝るわ。命の限り孝幸に尽くすわ」
「でも戻ってこない。もう、愛人と新しい生活を始めてるわよ。あれから何年たったと思ってるの?」
「え、うそ」
由美は孝幸の顔を見た。
孝幸は顔を背けた。
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