第30話 小娘の取引
珍しく咲奈が由佳の部屋にノックをして入ってきた。
「おばさん。話があるの」
「何よ、こんな時間に。今、忙しいのよ」
「することがないように見えるけど」
咲奈は無遠慮に言った。
「考え事をしていたの」
咲奈は由佳の顔をじっと見つめた。少女の目には、怒りと決意が静かに宿っていた。由佳はそれを、わずかに苛立ちながらも受け止めた。
「弁護士の男と寝たでしょう?」
咲奈は由佳の目を見た。
「それがどうかしたの? 大人の関係よ。口を出さないで」
由佳の唇がわずかに引きつった。咲奈の言葉が、彼女の胸に刺さったのがわかった。
「おばさんが何を考えているか、当ててあげようか?」
「何よ、いきなり……」
「私、あの日、ファミリーレストランから帰ってきてから、おばさんのことを考えたの」
由佳は黙った。咲奈は言葉を返す隙を与えなかった。
「すごく恨んだわ。だって、お父さんを嫌うように仕組まれたのよ。おばさんに嵌められてセクハラの濡れ衣を着せられたお父さんに、私はひどいことを言った。そして、お父さんを傷つけて、嫌われた。しかもそれが別れの言葉になってしまった」
由佳は一瞬、目を細めた。咲奈の言葉が、予想以上に鋭く胸に刺さった。
「あなたが愚かだからよ」
「私、まだ子供だったわ」
「今も子供よ」
咲奈は薄く笑った。その笑みには、心の痛みと決して屈しない強さが混じっていた。
「おばさんが、なぜお父さんを追い出して、そして今度はお父さんを追いかけているのかを考えたわ」
由佳はわずかに眉を寄せた。
「何のこと?」
「おばさん、ファミレスでお父さんと話しているとき、すごくうれしそうだった」
「そんなはずないでしょ」
由佳すぐに否定した。
「そして、お父さんが帰っていくとき、すごく悔しそうだった」
「何を言っているの……」
由佳は言葉を濁した。咲奈の視線は、由佳の目をまっすぐ捉えていた。由佳は一瞬、視線を逸らしかけたが、すぐに戻した。
「しらばっくれるのね。おばさんは、最初の離婚の後にお母さんがお父さんを家に連れてきた時、ショックを受けた。それは、資産が狙われたと思ったせいではない」
「変な勘ぐりはやめてほしいわ」
由佳の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「おばさんは財布の中に写真を入れている。何の写真か当ててあげましょうか?」
咲奈は畳み込むように続けた。
「あなた、人の財布の中を勝手に見るなんて、人として失格ね」
「あなたのような悪人が相手なら、何をしても許されるわ。少なくとも私の良心が咎めたりしない」
咲奈の言葉は、冷静で容赦がなかった。
「訴えるわよ」
「ええどうぞ。私は、おばさんが弁護士と寝たことをお父さんに伝えるわ」
由佳の息が止まった。咲奈の言葉が、予想以上に的確に自分の弱点を突いていた。
「何が望み?」
「おばさんの茶番劇に私の出番を作ってほしいの」
由佳はわずかに眉を寄せた。
「茶番劇?」
「いつもの、大げさなお芝居をするんでしょ?」
「それだけでいいの?」
「お父さんとの関係を、二度と邪魔しないで欲しいわ」
咲奈の声は、静かだが揺るぎないものだった。
「孝幸はあなたのことを毛虫のように嫌っている。今さら、関係は戻らないわ」
「そんなことないわ」
咲奈は即座に否定した。
「ファミレスで、あの人はあなたと目も会わさなかったでしょ?」
「目を合わさなかったんじゃないわ。合わせられなかったのよ」
咲奈は自信ありげな表情をした。
「どういう意味?」
「お父さんは涙をこらえていた」
咲奈の言葉に、由佳は一瞬、息を止めた。
「そんなの、あなたの勝手な思い込みよ」
「私が子供の頃、お父さんは人がいないところでよく泣いていたわ」
「それだけ?」
「去り際に、お父さんの涙を見た」
「子供の妄想には付き合ってられないわ。私、忙しいのよ」
由佳は話題を切り上げようとした。
「昨日、お父さんに会ったわ。偶然、ばったり出会ったふりをして」
「何してるのよ!」
由佳の声が、わずかに上がった。
「お父さんは気まずそうに笑っていた」
「それで?」
「それだけよ。私は絶対にお父さんを取り戻す」
由佳は小さくため息をついた。
「分かったわ。放っておいたら何をするか分からないから、あなたの出番を作ってあげる。せいぜい、いい演技をしてよりを戻すことね」
由佳の声は、冷たく、しかしどこか諦めを含んでいた。
「おばさんも頑張ってお父さんに媚びへつらうといいわ」
「ひどい言い草ね」
由佳は眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。
「私には言う権利がある」
咲奈の言葉には、揺るぎない強さがあった。
「約束は守ってもらうわよ」
「ええ、おばさんが弁護士と寝たことは秘密にする」
「取引は成立よ。小娘に一本取られたわ」
由佳は、自嘲めいた口調で言った。
「本気でお父さんに許されようとしてるのね。這いつくばって足でも舐めて、愛人にしてもらったら? でも、おばさんが女でいられるのはあとわずかよ」
咲奈の最後の言葉は静かで、しかし容赦がなかった。
「あなた、言うようになったわね」
「おばさんのおかげよ」
二人は顔を見合わせて笑った。その笑みには、互いへの冷たい計算と、抑えきれない感情が混じっていた。
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