第29話 一筋の涙
夕方だった。
由佳が孝幸のアパートの前に着くと、すでに孝幸が立っていた。手をポケットに入れ、少し俯き加減で、こちらを見ている。待ち合わせを約束したわけではなかった。由佳が連絡を入れただけだ。それでも孝幸は、先に来て待っていた。
二人は無言のまま、アパートの近くの小さな公園に入った。日が傾きかけ、街灯がまだ点灯していない薄暗い空間だった。ベンチに並んで座ることもなく、少し離れて立ったまま、向かい合う。
「由美の見舞いに来てくれれば、これまでのことにきちんと落とし前をつけるわ」
由佳は静かに言った。ただの条件提示。
「こんな関係を終わりにしたいのは、俺の方だ」
呟くような声だった。怒りも非難も感じられない。ただ、疲れた響きがあった。
「行くよ。由美のところに」
由佳は小さく頷いた。予想通りの返事だった。だが、次の言葉がわずかに計算と違った。
「由美のためでも、あんたのためでもない。咲奈のためだ」
孝幸はそう言いながら、由佳の目を見なかった。視線は足元の地面に落ちたまま動かない。
由佳は胸の奥で、微かな違和感を覚えた。何かが想定と違う。孝幸が動く理由が、自分の計算した範囲をわずかに外れている。
由佳はゆっくりと顔を上げ、孝幸の目を見た。
孝幸もようやく視線を合わせた。
「俺に、もう関わらないでくれ」
低く、はっきりとした声だった。拒絶の言葉はいつものように冷たく、しかしどこか丁寧だった。
由佳の表情が、ふいに消えた。いつもの冷静な仮面ではなく、計算を巡らせるときの微かな緊張でもない。ただ、無表情になった。
そして、右の目尻から、一筋の涙が伝った。
それは、由佳自身にとっても、予期しないものだった。泣くつもりなどなかった。泣く理由など、認めるつもりもなかった。なのに、涙は止まらずに頰を伝い、顎先で揺れた。
孝幸が、わずかに目を見開いた。慌てたように一歩踏み出しかけるが、すぐに足を止める。手を伸ばすこともなく、ただ、戸惑ったまま立ち尽くした。
由佳は涙を拭わなかった。無表情のまま、静かに言った。
「約束を守って」
それだけを残し、由佳は背を向けた。足早に公園を出ていく。肩は震えていなかった。歩みも乱れていなかった。ただ、一筋の涙の跡だけが、薄暗い空気の中に残されていた。
孝幸は、その背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。
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