第28話 夜の迷い
その夜、由佳は克己と居酒屋で会った。店は薄暗く、客の話し声が低く響いていた。由佳はビールを一口飲み、克己の顔を静かに見つめた。
「誠一さんとの離婚交渉は、どうなっているの?」と由佳は訊いた。
克己はグラスを傾けながら、淡々と答えた。
「順調だ。証拠も揃っている。財産分与もこちらの要求をほぼ通せそうだ」
由佳は小さく頷いた。克己の声には、いつものように計算された落ち着きがあった。由佳はそれに安心する自分と、どこか苛立つ自分を同時に感じていた。
克己はグラスを置き、少し声を落とした。
「由佳、昔のことを謝っておきたい。由美さんに言い寄っていた頃の自分は、浅はかだった。あの頃の僕は、ただの遊びのつもりだったように思う」
由佳は克己の顔をじっと見た。克己の目には、反省の色が浮かんでいたが、由佳にはそれが本物かどうかはわからなかった。
「もういいわ。あの頃のことは」
克己は少し間を置いてから、静かに続けた。
「由佳、僕と結婚しないか?」
由佳はグラスを持つ手を止めた。克己の言葉が、予想外に響いた。由美の自殺未遂で心が落ち着かない今、克己のプロポーズは、由佳の胸を強く揺さぶった。
「突然ね」
声は平静を装っていたが、心の中は動揺していた。
克己は真剣な目で由佳を見つめた。
「君の強さも、冷静さも、昔から好きだった。僕と一緒にいてくれないか」
由佳は克己の視線を受け止めながら、胸の奥で孝幸の顔が一瞬浮かぶのを感じた。その思いを振り払うように、由佳は克己のグラスに自分のグラスを軽く当てた。
その夜、二人はホテルに行った。由佳は克己の腕の中で、由美の自殺未遂の記憶を一時的に忘れようとした。克己の体温は温かく、由佳はそれを求めている自分に驚きながらも、抵抗しなかった。
しかし、ホテルから一人でタクシーに乗り、自宅に戻ったとき、由佳は強い後悔に襲われた。克己のベッドで感じた安堵は、すでに冷めていた。由佳はリビングのソファに座り、暗い部屋の中で静かに息を吐いた。
「これでよかったのか?」
由佳は小さく呟いた。克己との一夜は、由美の危機から逃れるための、ただの逃避だったのかもしれない。由佳は自分の胸の奥で、孝幸の顔が再び浮かぶのを感じ、静かに目を閉じた。
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