第27話 病室のドア
由佳は病室のドアの前に立っていた。すでに、由美の二度目の自殺未遂から三日が過ぎている。
ドアには「神崎」という名札がかかっていた。由佳はその名札をじっと見つめ、しばらく動かなかった。指先がコートの裾を軽く握りしめ、すぐに緩める。何度も繰り返した。
由佳は廊下のベンチに腰を下ろし、腕を組んだ。考えること——それが由佳の唯一の得意な逃げ方だった。考えている間は、何もしなくていい。考えることそのものが、行動のように見える。
孝幸を動かすには、何が必要か。由佳は条件を一つずつ整理した。由美の遺言、財産、咲奈の存在。すでに使った手はいくつもある。まだ使っていない手もいくつかある。由佳はそれらを冷静に検討した。
検討している間、由佳は自分の計算の中に、奇妙な熱が混ざっていることに気づかなかった。孝幸を動かしたいという気持ちが、本当に由美のためだけのものなのか。その問いを由佳は立てなかった。立てなければ答える必要もない。
スマートフォンが鳴った。克己からだった。
「由美さんは今どんな様子だ?」
由佳はしばらく黙った。克己の声には、いつものように計算された親しみが混じっていた。相手を安心させるための柔らかさ。彼女はそれを、静かに聞き流した。
「由美さんに会えないのか?」
克己は重ねて尋ねた。声の端に、わずかな探りを入れるような響きがあった。
「今、考え事で忙しいの。邪魔しないで」
由佳はぶっきらぼうに答えた。
「すまない。だが、大丈夫なのか?」
「由美なら、もう命に別状はないから」
由佳はすぐに事実だけを返した。
「そうじゃなくて、君のことだ」
克己は話題をずらさず、重ねて訊いた。
「私のこと?」
「君はもう疲れ切っているじゃないか。声でわかるくらいに」
由佳は一瞬、スマートフォンを強く握った。
「いつもと変わらないわ」
声は平坦に戻っていた。
「だといいが……」
克己はためらうように言った。
「さっきも言ったけど、私、考え事をしているの」
由佳は繰り返した。これ以上深入りされたくなかった。
「そうだったね。すまない。だが、君はもう少し自分の素直な気持ちを人に伝えた方がいいと思うよ」
克己は静かに続けた。
「どういう意味?」
由佳は警戒の色を込めて訊き返した。
「そのままの意味だ。ぼくはいつでも君の味方だ」
克己の言葉は親切に聞こえた。しかしその親切がどこまで計算されているのかを、由佳は測りかねていた。
「ありがとう」
由佳は短く応じた。
「ところで、今晩会えないか? 離婚手続きのことで話したい」
克己は話題を変えた。
「いいわ」
由佳は即座に答えた。
「よかったら、夕飯を一緒に食べないか?」
おそらく、手続きがひと段落したのだろう。由佳はそう判断した。感情ではなく、事実として。
「ええ」
「適当な店を予約しておくよ」
「ありがとう」
由佳は、再び短く礼を述べた。
ベンチに座ったまま、由美の病室のドアをもう一度見た。まだ入らない。まだ早い。由佳は同じ言葉を、何度も自分に繰り返していた。胸の奥で、孝幸の顔が一瞬浮かび、すぐに消えた。由佳はそれを、ただの計算の残滓だと思い込もうとした。感情の揺らぎなど、今の彼女の計画には不要なものだった。
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