第2話 日曜日の訪問者
コーヒーを一口含んだ。ブレンドにしては上出来だった。
神崎由佳は、妹の自殺未遂から三日後の午後、商店街の外れにある古びた喫茶店の窓際の席に座っていた。両親が風間孝幸のアパートから追い返されるのを待つためである。向かいには姪の咲奈が座り、オレンジジュースのグラスを前に、退屈そうにストローをいじっていた。
窓の外を、父の車がゆっくりと通り過ぎていった。出かけてからまだ二十二分しか経っていない。予想通りだった。由佳は時計に視線を落としながら、内心でわずかに頷いた。康介と澄子があの男の前で何を言おうと、感情で押し通そうとする限り、門前払いは避けられない。二十二分という短さは、彼らの無力さを物語っていた。
三分後、康介と澄子が喫茶店に入ってきた。康介は由佳の顔を見るや否や、すでに言い訳を用意したような表情を浮かべていた。
「やっぱりだめだったわ」と澄子が言った。
「ドアも開けてもらえなかった」と康介が続ける。「やはり無理だ。別の方法を考えよう」
「別の方法って何?」と由佳は静かに訊き返した。声に感情はほとんど乗せていなかった。「思いついているなら聞かせて。三日間、何も思いつかなかったから私に声をかけてきたんでしょう?」
康介は黙り込んだ。澄子が困ったような顔をした。その表情は、由佳が物心ついた頃から、ほとんど変わっていない。ただ年老いただけだった。
「次は私が行きます」と由佳は言った。
「お前が行ってどうする?」と康介が即座に言った。「あの男はお前のことを特に嫌っているはずだ」
「知ってるわ」
「ならば行っても無駄だろう」
「嫌いな相手の方が話は早いわ。感情で動かないから」
由佳は淡々と答えた。
「お父さんたちは感情で動かそうとしたから追い返されたのよ。私は別のやり方をするわ」
康介は再び黙った。その沈黙は、由佳にはすでに馴染みのあるものだった。父が言葉を失う瞬間を、由佳は何度目撃してきたことか。
「私も行く」
咲奈が由佳を見上げて言った。
「だめよ」と由佳は言った。
「なぜ?」
「今日は私一人で話をつけるから」
「嫌です」
咲奈は即座に答えた。
由佳は咲奈の顔をまっすぐに見つめた。娘は母の由美に似て、目が大きく、感情がそのまま顔に出やすい。まだ子供だ、と由佳は思った。子供であることが、時に便利で、時に面倒でもある。
「アパートの前まではついてきていいわ」と由佳は言った。「ただし私が合図するまで絶対に出てこないで。わかった?」
咲奈は小さく頷いた。康介が何か言いかけたが、由佳はそれを遮るように言った。
「お父さんとお母さんは帰って。あとで連絡するから」
「しかし――」
「帰っていて」
由佳は繰り返した。声は低く、しかし確かだった。
外に出ると、十一月の風が二人の間を冷たく通り抜けた。由佳は何も言わず、咲奈も黙ったまま並んで歩いた。
「叔母さん」
咲奈がぽつりと言った。
「何?」
「お父さんは、出てきてくれるかな」
「さあ。出てこなければ、別の手を考えるわ」
咲奈はそれ以上何も言わなかった。由佳も黙っていた。言葉を重ねる必要はない、と彼女は思った。必要なのは、行動の結果だけだ。
風間孝幸のアパートの前に着くと、由佳は人目に付きにくい路地の角を顎で示した。咲奈は無言でそこへ移動した。
由佳はインターフォンのボタンを押した。
沈黙が落ちた。
もう一度、押す。
再び、沈黙。
「風間さん」由佳はインターフォンに向かって、はっきりとした声で言った。「神崎由佳です。由美の姉です。少しお話ししたいのですが」
返事はなかった。由佳は一歩下がり、アパートの入り口の脇に立った。腕を組み、空を見上げた。雲が低く垂れ込めている。今日中に雨が来るかもしれない、と由佳は思った。雨が降れば、むしろ外出しにくくなるだろう。だが人間は、いつまでも部屋に閉じこもってはいられない。腹が減れば食料を買いに出るし、退屈に耐えきれなくなれば、結局どこかへ出ていくものだ。それだけのことだった。
路地の角から、咲奈がこちらを窺っているのがわかった。由佳は視線を空に戻した。姪の視線を気にする必要はない。必要なのは、ただ待つことだけだった。
二人は黙って、待ち続けた。
由佳の表情には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、淡い光の中で、彼女の瞳だけが静かに、しかし鋭く輝いていた。
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