第12話 誘い
克己からの誘いを受けた翌週、由佳は室内楽サークルの練習室を訪れた。文学部の校舎から少し離れた音楽棟の一室だった。ドアを開けると、柔らかな弦の音に包まれた。数人の学生が楽器を構え、静かに合わせている。
克己はチェロを抱えて中央に座っていた。由佳が入ってきたのを見て、軽く顎を引いた。
「来てくれたのか。ありがとう」
由佳は軽く会釈をした。
「まずは聴いていてくれ」
由佳は壁際に椅子を置いて座った。幼い頃に習っていたバイオリンの記憶が、ふと蘇る。父の希望で始めた習い事だったが、由佳にとってはディベートの訓練と同じく、ひとつの「義務」だった。感情を直接表現する音楽というものが、彼女にはどこか居心地が悪かった。
練習が始まった。克己のチェロは低く豊かな響きを放ち、他の弦楽器と絡み合う。由佳は黙って聴いていた。ディベートで武装した克己が、こんなにも感情を込めて音を紡ぐ姿に、奇妙な違和感を覚えた。
一曲が終わると、克己が由佳に近づいてきた。
「どうだった?」
「思っていたより、感傷的な演奏をするのね」
克己は小さく笑った。
「君もバイオリンを持ってきたらどうだい? 簡単なパートからでいい」
由佳は一瞬、迷った。ディベートのサークルに参加するはずが、なぜ音楽の領域に足を踏み入れようとしているのか。克己の視線には、計算された興味と、どこか純粋な期待が混じっていた。由佳はそれを見透かしながらも、拒む理由を見つけられなかった。
「わかりました。試してみます」
「よかったら、予備の楽器で演奏してみないか?」
由佳は貸し出されたバイオリンを手に取った。弓を構えると、幼い頃の指の記憶が不思議と蘇った。克己が簡単な伴奏を始め、由佳は短い旋律を奏でる。音は荒く、感情が乗っていない。しかし克己は満足げに頷いた。
「君の音には、理屈っぽい鋭さがある。すごく面白いじゃないか」
由佳はなるほどと思った。確かに心が躍ったように感じた。そのまま由佳は借り物のバイオリンで演奏を続けた。
そして練習が終わった後、克己は由佳に言った。
「正式に入らないか? 大人数のオーケストラではなくソロでもない、小さな室内楽。君に合うと思う」
由佳は克己の顔を見た。あの笑顔の裏側に、何かを見極めようとするように。
「考えておきます」
その帰り道、由佳は克己のチェロの音色を思い返していた。あの妙に感情の乗った響きが、なぜ自分を惹きつけるのか。由佳は小さく首を振った。興味がないわけではなかった。ただ、それが克己という男の計算の一部である可能性を、決して忘れなかった。
読んでくださりありがとうございます。「おもしろい」とか「よかった」という、一言でも感想を残していただけると嬉しいです。よろしければ、☆のポイントとリアクションのクリックをお願いします。




