第11話 ディベートと弦
神崎由佳は四月初旬に大学の講堂で入学式にベージュのスーツ姿で参加した。商学部に籍を置いた由佳は、ほどなく父の勧めでディベートサークルに顔を出した。
論理で世界を切り分けるという行為は、由佳にとって自然なものだった。幼い頃から父の会社経営の話を聞き、取引先との駆け引きを間近で見て育った彼女にとって、議論は単なる遊びではなく、生きる術の一つだった。
サークルの部室は文学部の古い校舎の三階にあった。入ると、すでに先輩たちが集まっていた。中でも目立ったのは、法学部四年生の三島克己だった。長身で、眼鏡の奥の目が常に笑っているような男である。
その日のテーマは「企業献金の是非」だった。由佳は新入生として控えめに発言を求められ、簡潔に反対の立場を述べた。克己はすぐに反論してきた。論理は鋭く、しかしどこか余裕のある口調だった。
「君の言うことは正論だ。しかし現実の政治は正論だけで動かない。そこにこそ魅力があるんじゃないか?」
議論が一段落した後、克己が由佳に近づいてきた。
「新入生にしては鋭いね。ところで、楽器はやるのかい?」
由佳は少し意外に思ったが、素直に答えた。
「幼い頃からバイオリンを習っていました。でも本格的に続けているわけではありません」
克己の目がわずかに輝いた。
「それは面白い。僕はチェロをやっているんだ。オーケストラのような大人数の演奏には、あまり興味がないんだが……君はどうだい?」
由佳は小さく首を傾げた。
「私も大人数で合わせるのは苦手です。音が埋もれてしまう気がして」
「そうか。それは気が合うね」
克己は軽く笑った。その笑顔はいつものように人を安心させるものだったが、由佳には計算された柔らかさを感じさせた。
「僕は室内楽サークルで、弦楽を中心にした小さなアンサンブルをやっている。一度見に来ないか? バイオリンとチェロの組み合わせも面白いと思うよ」
由佳は一瞬、戸惑った。ディベートサークルに来たのは議論の訓練のためだった。音楽など、彼女の人生にはほとんど関係のないものだった。しかし克己の誘いには、拒みにくい軽やかさがあった。
「考えておきます」と由佳は答えた。
その夜、由佳は自宅の自室で克己の顔を思い浮かべた。あの笑顔の裏に何があるのか。ディベートで武装した男が、なぜ音楽などという非論理的な世界に足を踏み入れているのか。
由佳は小さく息を吐いた。
大学に入ってまだ日が浅いとはいえ、由佳には親しい友人がほとんどいなかった。お嬢様として育てられ、父の会社のことばかりを考えてきた彼女にとって、人と心を通わせる機会は意外に少なかった。だからこそ、克己の誘いはどこか新鮮に響いた。興味がないわけではなかった。ただ、それが計算されたものであることに、すでに気づいていた。
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