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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第12話 ひらく、を、別の指で


 立会人の位置に立つのは、施す側より、ずっと、勇気が要る。


 そのことを、今朝、王都の宿の、鏡の前で、自分の服の襟元を、指で、整えながら、はじめて、理解した。──去年の夏、自分が経理室で、ハンネスさんに向けて、「ひらく」を、口にしたときの、あの朝の胸の詰まりを、思い返した。あのときは、詰まっていたぶんだけ、終わったあとの、指の震えが、はっきりと、出た。震える指を、レオンの小さな両手が、包んでくれた。


 今朝の私は、施す側、ではない。


 見届ける側、の位置に、立つ。


 見届ける側には、震えを、受け止めてくれる、別の、手は、ない。代わりに、自分の席の隣に、別の、重さが、立つ。──ルーカス様の、軍服の、肩の、角度、だった。


「……セレナ」


「はい」


「無理なら、行かなくても、いい」


 ルーカス様が、鏡越しに、私の襟元を、見ていた。自分で仕立ててはいない、王家通商方への公式の装い。生地は、昨日のうちに、マリーカ様経由で、軍医局の方が、湿りの少ないものを選んで、送ってきてくださった。


「行きます」


「……ああ」


「座っていられる儀ですから。椅子を、奥に、一つ、用意していただいています」


「ああ」


 ルーカス様は、それ以上、仰らなかった。仰らないのが、朝の、この人の、同意の形だった。


 お腹の、外側への、膨らみは、まだ、上着の、折り目で、隠れていた。隠れていることを、嬉しい、とは、思わなかった。ただ、今日の儀の場の主役は、私のお腹では、ない。──隠しておけるうちは、隠しておく、というのが、今朝の、礼儀の取り方、だった。


     ◇


 王家通商方の、奥の、儀のための部屋。


 三脚の書見台が、すでに、並んでいた。部屋の中央。去年の夏、ヴァイス領の経理室に、私が、ハンネスさんのために、並べた時と、同じ配置、だった。──右に、施す側の、古い封印の一冊。真ん中に、受け取り手の、空の冊子。左に、書式設計の清書。


 右の書見台の前に、ベネディクト局長が、立っていた。


 春の説明会の日の、白髪の、まっすぐな背筋、は、変わらない。変わったのは、机の木目を見る癖が、今日は、ない、こと、だった。顔を、部屋の入り口のほうに、向けていた。入ってくる人たちに、ご自分の目で、一人ひとり、会釈をしていた。──「読めない」と、自分の口で仰ってから、半年、この方の立ち姿の、向きが、変わっていた。


 真ん中の書見台の前に、フランツ書記。


 目の下の隈は、半年前より、薄かった。それでも、完全には、消えていない。隠し方が、上手くなっただけだ、と、自分で分かった。──新しい空の冊子の表紙に、指先が、軽く、触れていた。触れ方が、丁寧だった。これから、自分の紋を、育てる人の、最初の、触れ方、だった。


 立会人の席に、腰を下ろした。


 王家監察局の、立会いの方は、昨年の夏、ヴァイス領に来てくださった方と、別の方だった。書記の方と、王家の通商方の別部署の、同席者。部屋の隅に、王妃陛下の、個人代理の方が、一人、立っておられた。──王妃陛下ご本人は、今日は、おいでにならない。今日は、王家としてではなく、この二人の間の、儀だった。


 私の席の、隣に、ルーカス様が、立っていた。


 座らなかった。座る椅子を、用意していただいた。──でも、この人は、座らない、と、朝、宿で、決めていた。「儀の間、立っておく」とだけ、仰った。意味は、訊かなかった。訊かなくても、半分は、分かった。残りの半分は、今日、この場で、見れば、分かる気がした。


     ◇


「──本日、引き継ぎの儀を、執り行います」


 立会人の方の、低い声。


 ベネディクト局長が、右の書見台の、古い封印の一冊の、表紙に、指を、置いた。


 革の表紙が、薄く、光った。青い筋が、浮かび上がってくるまでに、少しだけ、時間が、かかった。──三十年、一人で封印を続けてきた紋が、ほどこうとしている時の、最初の、遅さ、だった。


 私は、膝の上で、自分の指を、重ねていた。


 重ねた手が、かすかに、冷たかった。


 立会人の席は、書見台の、真正面では、なく、斜めうしろ、だった。だから、私の目には、ベネディクト局長の、指先しか、見えなかった。顔は、見えなかった。──見えなくて、良かった。見えたら、たぶん、この方の、今日のこの瞬間の、表情を、私は、一生、忘れられなくなる。忘れるほどの重さを、私が、今日、持ち帰ることは、違う。今日の重さは、ベネディクト局長ご自身のもの、だった。


 ベネディクト局長の、もう一方の手が、ゆっくり、フランツ書記のほうへ、持ち上げられた。


「……フランツ」


「はい」


「右手の、人差し指と、中指を、重ねて。──この紋の、中央に、下ろしてくれ」


「……はい」


 フランツ書記の指が、紋の中央に、触れた。触れた瞬間、紋の青が、一度だけ、ほんの小さく、揺れた。──去年の夏、ハンネスさんのときと、同じ、揺れ方、だった。あのときは、揺らしたのは、私の「ひらく」の声、だった。今日は、誰の声が、揺らすか。それは、今、この部屋にいる全員で、待っていた。


 ベネディクト局長が、一度、息を、吸われた。


 吸った息の、戻り方が、朝より、少しだけ、遅かった。──三十年を、ひとつ、放そうとしている人の、肺の、動き方だった。


「──ひらく」


 声は、低かった。


 短かった。


 迷いは、なかった。


 紋の、青の光が、ふっと、一段、広がった。


 広がった青の筋が、右の書見台の、革表紙から、ゆっくりと、真ん中の書見台の、空の冊子の表紙のほうへ、細い糸のように、伝っていった。糸は、途中で、切れなかった。切れずに、真ん中の冊子の、表紙の、中央に、届いた。


 届いたところで、新しい紋が、薄く、生まれ始めた。


 生まれた紋の色は、まだ、薄い、青、だった。ベネディクト局長の、古い紋の、濃さとは、違った。──これから、フランツ書記自身が、育てていく、紋、だった。


 フランツ書記の、指先が、かすかに、動いた。


「……ベネディクト様」


「ああ」


「──読めます」


 紋から、顔を、上げた。


 顔は、ベネディクト局長のほうに、向いていた。目の下の、薄い隈は、消えては、いなかった。でも、その隈の上の、目の光の、色が、春の説明会の日とは、違った。


「局長の、三十年の、符丁の、構造が、ちゃんと、紋から、指に、流れてきます。──教わりながら、お教えいただきながら、育てます。局長の、残りの、仕事を、引き受けさせて、ください」


 ベネディクト局長は、頷かれなかった。


 頷く代わりに、自分の手を、紋の上から、ゆっくり、ひいた。ひいた手を、フランツ書記の、肩の、すぐ近くに、持ち上げかけて──止めた。触れなかった。触れずに、もう一度、自分の体の、横に、下ろした。触れないことも、この方の、今日の、判断、だった。


 「引き継ぎの儀、成立──」


 立会人の方の、短い声が、部屋の中に、まっすぐに、落ちた。


 書記のペンが、紙の上を、一度、走った。


     ◇


 私は、席から、立たなかった。立てなかった、ではない。立つ、という動作を、しないほうが、今日の、立会人の礼儀、だった。


 ベネディクト局長が、部屋の、ご自分の席に、戻られる途中、私の席の、真横を、通られた。


 立ち止まられた。


 頭を、下げられた。


 春の説明会の最終日と、同じ、角度ではなかった。春のあの日は、顔が、私の資料の、表紙の端のほうに、向いていた。今日は──顔が、私の、膝の上の、重ねた手の、そのあたりに、向いていた。


 言葉は、なかった。


 今日も、この方は、何も、仰らなかった。仰らないのが、この方の、いちばん深い、言葉の、代わりだった。


 一礼を、戻された。元の姿勢で、また、ご自分の席に、歩いていかれた。


     ◇


 部屋を出て、廊下に、出た。


 人の、少ない、窓辺の場所まで、ルーカス様と、二人で、歩いた。


 歩きながら、ルーカス様は、何も、仰らなかった。私のほうも、何も、仰らなかった。廊下の、窓の、外で、王都の、初秋の、少しだけ乾き始めた空が、午後の光の中に、ひろがっていた。


 窓の前で、立ち止まった時、ルーカス様の、片方の手のひらが、私の、上着の、胴のあたりに、ほんの短く、置かれた。


 指の、腹のところが、お腹の、いちばん、高くなりはじめた、ところに、ごく、軽く、触れた。強くは、なかった。押しもしなかった。ただ、そこに、「いる」、ということを、確かめた、だけの、触れ方、だった。


 触れてから、すぐに、離した。


 廊下の端で、王家監察局の方が、何か、別の書類を、持って、歩いていらした。私たちの、場面を、ご覧になった、はずだった。見なかったふりを、してくださった。──そのお気遣いごと、含めて、今日の、廊下の、全部、だった。


     ◇


 帰路の馬車の、揺れの中で、もう一通、書簡を、受け取った。


 王家監察官の方から、直接、渡された。封蝋は、王妃陛下の、個人紋。


『セレナ様へ。


 本日の、儀式の、ご成立、何よりに存じます。

 次の秋、──もう一つ、お願いがございます。

 他領のお話ですが、お体の、ご負担にならない範囲で、またお手紙を差し上げさせてくださいませ。

 どうぞ、ご自愛を。


       王妃』


 短かった。短いけれど、「次の秋」の、その一語の上で、私の指が、ほんの一瞬、止まった。


 次の秋、のあたりには、私のお腹の中の子は、もう、外に、出ている。外に、出ていて、泣いたり、眠ったり、していると思う。その泣き声の、隣で、私は、別の領地への、引き継ぎの、次の仕事を、することになる。


(……渡して、広げて、そして──戻ってくる)


 声には、出さなかった。


 ルーカス様が、馬車の、窓の外を、見ていた。


 視線の、向きが、いつもの、地形を、思い出すときの、角度、だった。次の秋の、お願い、と書かれた、その先の、どこかの領地の地形を、この人は、もう、頭の中で、描き始めていた。

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