第12話 ひらく、を、別の指で
立会人の位置に立つのは、施す側より、ずっと、勇気が要る。
そのことを、今朝、王都の宿の、鏡の前で、自分の服の襟元を、指で、整えながら、はじめて、理解した。──去年の夏、自分が経理室で、ハンネスさんに向けて、「ひらく」を、口にしたときの、あの朝の胸の詰まりを、思い返した。あのときは、詰まっていたぶんだけ、終わったあとの、指の震えが、はっきりと、出た。震える指を、レオンの小さな両手が、包んでくれた。
今朝の私は、施す側、ではない。
見届ける側、の位置に、立つ。
見届ける側には、震えを、受け止めてくれる、別の、手は、ない。代わりに、自分の席の隣に、別の、重さが、立つ。──ルーカス様の、軍服の、肩の、角度、だった。
「……セレナ」
「はい」
「無理なら、行かなくても、いい」
ルーカス様が、鏡越しに、私の襟元を、見ていた。自分で仕立ててはいない、王家通商方への公式の装い。生地は、昨日のうちに、マリーカ様経由で、軍医局の方が、湿りの少ないものを選んで、送ってきてくださった。
「行きます」
「……ああ」
「座っていられる儀ですから。椅子を、奥に、一つ、用意していただいています」
「ああ」
ルーカス様は、それ以上、仰らなかった。仰らないのが、朝の、この人の、同意の形だった。
お腹の、外側への、膨らみは、まだ、上着の、折り目で、隠れていた。隠れていることを、嬉しい、とは、思わなかった。ただ、今日の儀の場の主役は、私のお腹では、ない。──隠しておけるうちは、隠しておく、というのが、今朝の、礼儀の取り方、だった。
◇
王家通商方の、奥の、儀のための部屋。
三脚の書見台が、すでに、並んでいた。部屋の中央。去年の夏、ヴァイス領の経理室に、私が、ハンネスさんのために、並べた時と、同じ配置、だった。──右に、施す側の、古い封印の一冊。真ん中に、受け取り手の、空の冊子。左に、書式設計の清書。
右の書見台の前に、ベネディクト局長が、立っていた。
春の説明会の日の、白髪の、まっすぐな背筋、は、変わらない。変わったのは、机の木目を見る癖が、今日は、ない、こと、だった。顔を、部屋の入り口のほうに、向けていた。入ってくる人たちに、ご自分の目で、一人ひとり、会釈をしていた。──「読めない」と、自分の口で仰ってから、半年、この方の立ち姿の、向きが、変わっていた。
真ん中の書見台の前に、フランツ書記。
目の下の隈は、半年前より、薄かった。それでも、完全には、消えていない。隠し方が、上手くなっただけだ、と、自分で分かった。──新しい空の冊子の表紙に、指先が、軽く、触れていた。触れ方が、丁寧だった。これから、自分の紋を、育てる人の、最初の、触れ方、だった。
立会人の席に、腰を下ろした。
王家監察局の、立会いの方は、昨年の夏、ヴァイス領に来てくださった方と、別の方だった。書記の方と、王家の通商方の別部署の、同席者。部屋の隅に、王妃陛下の、個人代理の方が、一人、立っておられた。──王妃陛下ご本人は、今日は、おいでにならない。今日は、王家としてではなく、この二人の間の、儀だった。
私の席の、隣に、ルーカス様が、立っていた。
座らなかった。座る椅子を、用意していただいた。──でも、この人は、座らない、と、朝、宿で、決めていた。「儀の間、立っておく」とだけ、仰った。意味は、訊かなかった。訊かなくても、半分は、分かった。残りの半分は、今日、この場で、見れば、分かる気がした。
◇
「──本日、引き継ぎの儀を、執り行います」
立会人の方の、低い声。
ベネディクト局長が、右の書見台の、古い封印の一冊の、表紙に、指を、置いた。
革の表紙が、薄く、光った。青い筋が、浮かび上がってくるまでに、少しだけ、時間が、かかった。──三十年、一人で封印を続けてきた紋が、ほどこうとしている時の、最初の、遅さ、だった。
私は、膝の上で、自分の指を、重ねていた。
重ねた手が、かすかに、冷たかった。
立会人の席は、書見台の、真正面では、なく、斜めうしろ、だった。だから、私の目には、ベネディクト局長の、指先しか、見えなかった。顔は、見えなかった。──見えなくて、良かった。見えたら、たぶん、この方の、今日のこの瞬間の、表情を、私は、一生、忘れられなくなる。忘れるほどの重さを、私が、今日、持ち帰ることは、違う。今日の重さは、ベネディクト局長ご自身のもの、だった。
ベネディクト局長の、もう一方の手が、ゆっくり、フランツ書記のほうへ、持ち上げられた。
「……フランツ」
「はい」
「右手の、人差し指と、中指を、重ねて。──この紋の、中央に、下ろしてくれ」
「……はい」
フランツ書記の指が、紋の中央に、触れた。触れた瞬間、紋の青が、一度だけ、ほんの小さく、揺れた。──去年の夏、ハンネスさんのときと、同じ、揺れ方、だった。あのときは、揺らしたのは、私の「ひらく」の声、だった。今日は、誰の声が、揺らすか。それは、今、この部屋にいる全員で、待っていた。
ベネディクト局長が、一度、息を、吸われた。
吸った息の、戻り方が、朝より、少しだけ、遅かった。──三十年を、ひとつ、放そうとしている人の、肺の、動き方だった。
「──ひらく」
声は、低かった。
短かった。
迷いは、なかった。
紋の、青の光が、ふっと、一段、広がった。
広がった青の筋が、右の書見台の、革表紙から、ゆっくりと、真ん中の書見台の、空の冊子の表紙のほうへ、細い糸のように、伝っていった。糸は、途中で、切れなかった。切れずに、真ん中の冊子の、表紙の、中央に、届いた。
届いたところで、新しい紋が、薄く、生まれ始めた。
生まれた紋の色は、まだ、薄い、青、だった。ベネディクト局長の、古い紋の、濃さとは、違った。──これから、フランツ書記自身が、育てていく、紋、だった。
フランツ書記の、指先が、かすかに、動いた。
「……ベネディクト様」
「ああ」
「──読めます」
紋から、顔を、上げた。
顔は、ベネディクト局長のほうに、向いていた。目の下の、薄い隈は、消えては、いなかった。でも、その隈の上の、目の光の、色が、春の説明会の日とは、違った。
「局長の、三十年の、符丁の、構造が、ちゃんと、紋から、指に、流れてきます。──教わりながら、お教えいただきながら、育てます。局長の、残りの、仕事を、引き受けさせて、ください」
ベネディクト局長は、頷かれなかった。
頷く代わりに、自分の手を、紋の上から、ゆっくり、ひいた。ひいた手を、フランツ書記の、肩の、すぐ近くに、持ち上げかけて──止めた。触れなかった。触れずに、もう一度、自分の体の、横に、下ろした。触れないことも、この方の、今日の、判断、だった。
「引き継ぎの儀、成立──」
立会人の方の、短い声が、部屋の中に、まっすぐに、落ちた。
書記のペンが、紙の上を、一度、走った。
◇
私は、席から、立たなかった。立てなかった、ではない。立つ、という動作を、しないほうが、今日の、立会人の礼儀、だった。
ベネディクト局長が、部屋の、ご自分の席に、戻られる途中、私の席の、真横を、通られた。
立ち止まられた。
頭を、下げられた。
春の説明会の最終日と、同じ、角度ではなかった。春のあの日は、顔が、私の資料の、表紙の端のほうに、向いていた。今日は──顔が、私の、膝の上の、重ねた手の、そのあたりに、向いていた。
言葉は、なかった。
今日も、この方は、何も、仰らなかった。仰らないのが、この方の、いちばん深い、言葉の、代わりだった。
一礼を、戻された。元の姿勢で、また、ご自分の席に、歩いていかれた。
◇
部屋を出て、廊下に、出た。
人の、少ない、窓辺の場所まで、ルーカス様と、二人で、歩いた。
歩きながら、ルーカス様は、何も、仰らなかった。私のほうも、何も、仰らなかった。廊下の、窓の、外で、王都の、初秋の、少しだけ乾き始めた空が、午後の光の中に、ひろがっていた。
窓の前で、立ち止まった時、ルーカス様の、片方の手のひらが、私の、上着の、胴のあたりに、ほんの短く、置かれた。
指の、腹のところが、お腹の、いちばん、高くなりはじめた、ところに、ごく、軽く、触れた。強くは、なかった。押しもしなかった。ただ、そこに、「いる」、ということを、確かめた、だけの、触れ方、だった。
触れてから、すぐに、離した。
廊下の端で、王家監察局の方が、何か、別の書類を、持って、歩いていらした。私たちの、場面を、ご覧になった、はずだった。見なかったふりを、してくださった。──そのお気遣いごと、含めて、今日の、廊下の、全部、だった。
◇
帰路の馬車の、揺れの中で、もう一通、書簡を、受け取った。
王家監察官の方から、直接、渡された。封蝋は、王妃陛下の、個人紋。
『セレナ様へ。
本日の、儀式の、ご成立、何よりに存じます。
次の秋、──もう一つ、お願いがございます。
他領のお話ですが、お体の、ご負担にならない範囲で、またお手紙を差し上げさせてくださいませ。
どうぞ、ご自愛を。
王妃』
短かった。短いけれど、「次の秋」の、その一語の上で、私の指が、ほんの一瞬、止まった。
次の秋、のあたりには、私のお腹の中の子は、もう、外に、出ている。外に、出ていて、泣いたり、眠ったり、していると思う。その泣き声の、隣で、私は、別の領地への、引き継ぎの、次の仕事を、することになる。
(……渡して、広げて、そして──戻ってくる)
声には、出さなかった。
ルーカス様が、馬車の、窓の外を、見ていた。
視線の、向きが、いつもの、地形を、思い出すときの、角度、だった。次の秋の、お願い、と書かれた、その先の、どこかの領地の地形を、この人は、もう、頭の中で、描き始めていた。




