第11話 木剣と、きょうだい
初夏の、ヴァイス領の風は、春先のそれより、少しだけ、厚い。
厚い、というのは、水分の含み方の話、だった。朝の経理室の窓を開けると、潮の匂いの中に、草の、青い匂いが、混じるようになる。冬のあいだ、乾いた匂いばかりだったのが、今は、濡れている。濡れていることが、悪い、とは思わない。濡れた風は、机の上の頁を、ほんの少しだけ、重くする。重くなった頁を、書いているときのほうが、私は、筆の角度を、正しく、保てる。
私の、お腹の中の、日数が、ふた月と少し、経っていた。
まだ、外側には、分からない。服のベルトの位置を、指一本分、ゆるく、したくらい。歩く速さを、いつもの二割ぐらい、落としたくらい。──ほんの小さな、二つの調整が、日に何度も、自分の頭の中で、確認されるようになっていた。確認することが、負担ではなかった。確認することが、「いる」を、そのたびに、小さく、確かめる動作に、なっていた。
今朝は、レオンが来る日、だった。
◇
馬車が、門の前で、止まる音がして、玄関先に、ハンネスさんが、先に出た。
私は、ルーカス様と、玄関ホールの、ちょうど、光の入る位置に、立っていた。ルーカス様は、襟を、今朝は、完全に、下ろしていた。夏の風は、この人の喉には、もう、優しい。
「おかあさま、ごぶさたしておりました」
レオンの、今日の、最初のひと言、だった。
「ぼく」ではなく、「私」を使いかけて、迷って、結局、「ぼく」に、戻したのが、口の動きの、わずかな躊躇で、分かった。──まだ、あの子の中で、一人称の選び方は、揺れていた。揺れていることを、大人の目の前では、ぎりぎり、隠している。隠せていることが、この子の、この半年の、ひとつの成長だった。
「お久しぶりです、レオン。長い道中、お疲れ様でした」
しゃがんで、目線を合わせる動作が、今日は、いつもより、少しだけ、遅かった。膝の下ろし方を、ゆっくり、にしていた。レオンは、それに、気づいたのか、気づかないふりをしたのか、自分では、まだ、判別がつかない表情で、小さく、頷いた。
同行の監査官の方が、一通の書簡を、私に、渡してくださった。
アルベルト様からのもの。封蝋は、公爵家の、横に、小さな監察局の紋。月に一度の、あの、範囲の中の、一通、だった。
玄関先で、軽く、開いた。
中は、短かった。
『セレナ様。
レオンを、お預かりいただき、誠にありがとうございます。
本件の、今朝の時点の、お報せ、一点。
──お腹の件、レオンには、まだ、お伝えしておりません。
お二人の、お手で、お伝えいただけますと、幸いです。
それが、あの子にとって、いちばん、素直に、受け取れる順番かと存じます。
アルベルト』
書簡を、畳んだ。
畳んだ動きを、ルーカス様が、横で、目の端で、追っていた。追っていたけれど、何も、訊かなかった。──夜に、話す、で、十分な人、だった。
◇
午後、庭に、ルーカス様が、木剣を、二本、持って出た。
片方は、レオンの、いつもの、子供用。もう一本は、見慣れない、もうひと回り小さい、細身の、木剣。
(……削っておられたのですね)
声には、出さなかった。夜、自室の窓から、灯りの下で、ルーカス様が何か細いものを少しずつ削っているのを、先月から、ときどき、見ていた。大きさの判別は、暗くて、つかなかった。けれど、削る音の丁寧さだけは、分かっていた。
「レオン」
「はい」
「今日は、二本、ある」
ルーカス様は、並べて、地面に、置いた。
レオンは、小さいほうを、不思議そうに、見た。見て、しばらく、考えていた。考えてから、大きいほうを、自分で、取った。
「こっち、ぼくのです」
「ああ、それは、お前のだ」
「じゃあ、こっちは、……だれの、ですか」
「──いつか、お前の、きょうだいの、だ」
ルーカス様の声が、いつもの、短い返事と、同じ、重さだった。
ただ、一言、変えた。普段なら、「お前の子」と、俺に、言う場面だった。でも、今日は、「お前の、きょうだい」と、レオンに、向けて、言った。順番を、いちばん最初に、伝えるべき相手が、今日は、レオンだった。
レオンは、木剣を、両手で、持ったまま、動かなかった。
私は、経理室の窓から、その光景を、見ていた。見ていたのは、二人の会話が、聞こえない距離、だった。聞こえないのに、見ているだけで、何を話しているかが、だいたい、分かった。──わかったのは、九歳の子の、肩の線の、急な、一瞬の、変わり方、だった。
◇
夕食のあと、レオンは、庭に、もう出なかった。
応接間の長椅子の、いつもの場所に、小さく、腰かけていた。私は、少しだけ、迷ってから、隣に、座った。座るときに、膝の下ろし方を、昼間より、もう少し、ゆっくりにした。
レオンが、しばらく、膝の上の、両手の指を、見ていた。見ていた視線が、ほんのわずかに、私の、お腹の、あたりまで、動いて、すぐ、また、自分の指のほうに、戻った。
「……おかあさま」
「はい」
「おからだ、どうですか」
──今日の、レオンの、いちばん、正面の、問いだった。
しゃがまずに、腰かけたまま、顔を、レオンのほうに、向けた。向け方が、社交界の、どの角度とも、違った。自分の身体の、今いちばん、楽な角度、だった。
「大丈夫です。お昼に、ルーカス様が、お話ししてくださった通りよ」
「……きょうだいが、生まれるって」
「ええ」
「いつ、ですか」
「冬が、終わる前。──春になる前に」
レオンは、もう一度、膝の上の指を、見た。
少しの時間が、流れた。長くも、短くもない、その子の、その子なりの、受け止めの時間、だった。私は、急がせなかった。ルーカス様も、扉のそばで、立ったまま、動かなかった。
「……男の子、ですか。女の子、ですか」
「まだ、どちらか、わからないのよ」
「そうですか」
また、少し、黙った。
それから、ぽつり、と、レオンが、仰った。
「……ぼくの、木剣」
「ええ」
「その子に、貸してあげても、いいですか」
「……貸してあげる?」
「うん。ちいさいほうが、もし、こわれたら、ぼくの、大きいほう、使えるように」
私は、即座に、言葉を、返さなかった。
返せなかった、のではなく、返すと、それが、感情の、いちばん柔らかいところを、押し潰す気が、して、した。代わりに、ひと息、置いた。置いて、頷いた。
「……ありがとう、レオン」
「はい」
「その子にも、きっと、伝えます」
「はい」
扉のそばのルーカス様が、頷いていた。頷いたあとの、視線の、角度が、レオンの頭のてっぺんのあたりに、向いて、動かなかった。──この人の、こういう動かなさは、だいたい、胸の内側の、重さの話、だった。重さを、口に出さないぶんだけ、視線のほうに、預ける人、だった。
◇
夜、自室の窓から、庭のほうを、見ていた。
月明かりが、薄く、花壇の縁を、照らしていた。白い花壇の、花弁が、夜風に、静かに、揺れていた。──ふた月のあいだに、花壇の縁が、またひと回り、広がっていた。シャルロットが、ハンネスさんと、先日、ひと畝ぶん、苗を、足してくれた。私は、その日、経理室で、頁を、閉じていた。「今日は、お手伝いは、いりませんから、どうぞ、お座りください」と、シャルロットが、言ってくれた。座らせてもらうことを、ありがたい、と、思った。
灯りの、下のほう、庭の、木剣の置き場のあたりに、ルーカス様が、一人で、いた。
細身の、小さいほうの木剣を、もう一度、布で、拭いていた。昼間、レオンが、土の上に、立てた時の、握りの、跡の、細かい汚れを、落としている、ように、見えた。
拭いたあと、小さいほうの木剣を、大きいほうの横に、揃えて、立てかけた。揃えたあと、自分の外套の、袖で、顔のあたりを、一度、ごく軽く、擦った。
私は、窓から、顔を、そっと、ひいた。
ひくのが、今夜の、この人への、いちばんの、敬意、だった。
◇
翌朝、レオンを、見送った。
馬車に、乗る前、監査官の方に、私は、一通の便箋を、お預けした。
『アルベルト様。
レオンを、お迎えに、ありがとうございました。
昨日の午後、ルーカス様と、私と、三人で、お腹のことを、レオンに、お話ししました。
あの子は、木剣を、貸してあげると、申してくれました。
──それだけを、お伝えいたします。
セレナ・フォン・ヴァイス』
差出人は、きちんと、ヴァイスの姓で、署名した。
月に、一度の、範囲。──その範囲を、自分のほうが、越えない、という意思を、便箋の角に、折り目の整え方で、小さく、書き込んだ。
監査官の方は、頷いて、受け取ってくださった。
馬車が、動き始めた。
レオンが、窓から、手を、小さく、振った。振り返した。ルーカス様は、振らなかった。片手を、軽く、上げて、下ろした。──この人の、別れの合図は、いつも、それだった。
馬車が、門を、出ていくまで、私は、玄関先に、立っていた。立っている間、自分の片手が、お腹のほうに、自然に、当てられていた。
当てた自分の手を、今朝は、隠さなかった。




