第百五十二章:月曜の道場と、探偵たちの完全分業
#1
五月十一日、月曜日。
五月の爽やかな風が校舎を吹き抜け、生徒たちの足取りからもゴールデンウィークの「休みボケ」が完全に抜け落ちた放課後。
旧視聴覚室には、愛瑠来さんが淹れた、香ばしい玄米茶のホッとするような香りが満ちていた。
私、さらんは、ソファーで湯呑みを両手で包みながら、穏やかな一週間の始まりを満喫している。
部屋の中央では、先週末の『強制労働』の疲労を癒やすかのように、王、根露くんが無重力チェアの奥深くに沈み込み、白猫のシロと共に完全無欠の午睡(お昼寝)の海を漂っていた。
コンコン、と礼儀正しいノックの音が鳴り、剣道部の一年生、海斗くんが、少し首を傾げながら部室に入ってきた。
「……失礼します! 視聴覚の皆さん、ちょっと道場のことでお聞きしたいことがあって……」
「海斗くん、お疲れ様。剣道部の道場?」
私が声をかけると、自作のパソコンパーツを組み立てていた写楽くんが、静かにドライバーを置いて立ち上がった。
海斗くんは、スマートフォンを取り出し、道場の入り口付近を写した画像をテーブルに表示させた。
「……毎週月曜日の朝練の時、僕が一番に道場の鍵を開けるんですけど。必ず入り口の敷居のすぐ内側に、幅一メートルくらいの『一直線の濡れた跡』があるんです。……誰かが雑巾で一本の線を引いたみたいに」
画像には、ワックスの塗られていない無垢の木の床に、スーッと引かれた濡れ跡が写っていた。
「……ただの水じゃないんです。触ると、少しだけ『ベタッ』とするんです。ジュースでもこぼして適当に拭いたのかなって思ったんですけど、毎週月曜日に必ず、同じ場所に一直線の跡があるので、気味悪くて……」
「……特定の曜日における、道場の床への粘着性液体の塗布か」
写楽くんは、静かに海斗くんのスマホを受け取った。
彼は画像を極限まで拡大し、濡れ跡の反射率と、木のささくれに引っかかっている微細なゴミをスキャンするように観察する。
やがて、写楽くんは事も無げに眼鏡を押し上げた。
「……海斗くん。これはジュースの食べこぼしでも、嫌がらせでもない。極めて意図的な『成分の配置』だ」
写楽くんは、淀みない口調で演繹を開始した。
「……まず、この液体の正体。光の屈折率と粘度から、果糖ブドウ糖液糖と電解質を含んだ水溶液……つまり『スポーツドリンク』だ。
……そして、床の木目に数本の微細な『紺色の繊維』が引っかかっている。これはただの雑巾ではない。天然の藍で染められた、綿100%の布地。……剣道部員が面の下に被る『面手拭い(めんてぬぐい)』の繊維だ」
「……スポーツドリンクと、面手拭い?」
海斗くんが目を丸くする。
写楽くんは、静かに結論を告げた。
「……日曜日の夜、誰かが自分の面手拭いにスポーツドリンクを染み込ませ、道場の入り口の床を一直線に拭いた。
犯人は『藍染めの手拭いを持ち、夜の道場に出入りできる剣道部員』だ。……物理的証拠(液体の成分と繊維)から導き出せる『事実(WHOとWHAT)』はここまでだ。……僕の領域は、ここで終わる」
写楽くんは、それ以上の憶測……なぜ剣道部員が、わざわざスポーツドリンクで入り口の床を拭くのか……を一切口にすることなく、静かに愛瑠来さんへと視線を送った。
#2
「……完璧な物的証拠の提示です、写楽くん」
愛瑠来さんが、静かな拍手と共に歩み出た。
彼の灰色の瞳が、スマホの画面に写る『道場の入り口』を優しく見つめる。
「……しかし、なぜその剣道部員が、わざわざ『スポーツドリンク』を使って、道場の『入り口』にだけ直線の跡を残す必要があったのか。……人間の行動には、必ず『環境と実用的な理由』が存在します。ここからは、私の『灰色の脳細胞』の出番ですね」
愛瑠来さんは、海斗くんに温かい玄米茶を手渡した。
「……海斗くん。五月に入り、雨の日や湿度が高い日が増えてきました。湿気の多い日の道場の床は、素足で踏み込むとどうなりますか?」
「えっと……木が湿気を吸って、すごく滑りやすくなります。特に月曜日の朝は、土日の間にホコリも落ちているので、踏み込みの時に足が滑って転びそうになる一年生が多いです」
「……なるほど。そして、スポーツドリンクに含まれる『糖分』は、乾くと適度な粘り気(グリップ力)を生み出します。バスケットボールの選手が、シューズの裏の滑り止めとして使うテクニックと同じですね」
愛瑠来さんは、優雅に微笑んだ。
「……あっ!」
私と海斗くんの声が重なった。
愛瑠来さんの優しい、しかし確信に満ちた声が響く。
「……犯人は、日曜日の夜遅くまで一人で自主練をしている、あなた方の『主将』でしょう。
彼は、月曜日の朝練で後輩たちが滑って怪我をしないよう、滑り止めの役割を果たす糖分を床に塗っておいてくれたのです。
……そして、あえて『入り口の敷居のすぐ内側』に一直線に塗ったのは、道場に入る者が『必ずそこを素足で踏む』からです」
愛瑠来さんは、両手を胸の前で静かに組んだ。
「……道場に足を踏み入れた瞬間、足の裏にほんの少しだけ糖分が付着し、それが天然の滑り止めとなる。
……あれは気味の悪い汚れなどではありません。後輩たちが安全に稽古できるようにと、主将がこっそりと仕掛けた『見えない安全マット』なのです」
「……そうだったのか……!」
海斗くんの顔から疑問が完全に消え去り、尊敬と感動の表情が広がった。
「……主将、いつもは鬼みたいに厳しいのに、見えないところで俺たちの足元を守ってくれてたんだ。……明日、こっそり主将の防具袋の横に、新しいスポーツドリンクを差し入れしておきます!」
「……ふふっ。謎が解けてよかったわね。足を踏み入れるたびに、主将の優しさを感じられるわね」
私が微笑みかけると、海斗くんは「はい!」と力強く頷き、道場へと駆け出していった。
「……糖分と繊維という『事実』から、湿度によるスリップ防止と動線という『環境の合理性』を導き出す。……見事だ、愛瑠来」
写楽くんが、心からの賞賛を送る。
「……ええ。写楽くんの揺るぎない証拠(事実)があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
無重力チェアの上で目を閉じていた王、根露くんから、静かな鼻息が漏れた。
「……阿呆どもめ。部員の安全を守りたいのであれば、市販の『剣道用の滑り止めスプレー』を入り口に置き、『道場に入る前に全員足の裏に吹きかけろ』と口頭で指導すれば済むものを」
根露くんは、シロの背中を撫でながら気怠げに呟いた。
「……だが、一年生全員にいちいち口うるさく注意喚起するという『コミュニケーションのカロリー消費』を嫌い、入り口の動線に罠のように成分を配置することで、部員たちに『自動的に滑り止めを踏ませる』そのシステム。
……言葉による指導を極限まで削ぎ落とし、環境設計のみで目的を達成するその『怠惰にして完璧なマネジメント』。……余は高く評価してやろう」
「……王様、主将は別に指導をサボりたくて罠を張ったわけじゃないですからね!」
私が笑ってツッコミを入れると、部室に穏やかで温かい月曜日の笑い声が響いた。
五月十一日、月曜日。
道場の入り口の濡れ跡の謎は、写楽の「物理的証拠に基づく事実の確定」と、愛瑠来の「環境と心理への深い洞察」、そして王の「自動化への怠惰なる賞賛」によって、一分の隙もなく美しく解き明かされた。
イレギュラーな週末を乗り越え、旧視聴覚室の探偵たちは、再びそれぞれの絶対的な境界線(領分)を守りながら、五月の日々を過ごしていくのだった。
【第百五十二章:月曜の道場と、探偵たちの完全分業 - 了】




