第百五十一章:土曜のチューバと、王の強制労働(後編)
#1
五月九日、土曜日。午前。
チューバのマウスピース盗難事件。己の昼寝の平和を守るため、不本意ながら捜査に乗り出した根露くんは、現場に残された『コルクグリス』から、犯人が「木管楽器の担当者」であることを特定した。
「……さて。ここからは人間の非効率な行動には理由があるとかいう、鬱陶しい心理分析(愛瑠来の領域)だ」
根露くんは、音楽室のパイプ椅子にドカッと腰を下ろし、一番楽な姿勢でふんぞり返った。
「……木管楽器の連中よ、少し手を止めて余の話を聞け」
根露くんの凄みのある声に、クラリネットやフルートを吹いていた生徒たちが、ビクッとして演奏を止めた。
「……大輝。お前たち吹奏楽部は、なぜ今日、こんな週末に朝から晩までの長時間の合奏練習をしている?」
「えっと、夏のコンクールに向けて、顧問の先生が『今日は基礎合奏の徹底特訓だ! 妥協は許さん!』って張り切っているからです。……正直、みんなちょっとバテ気味ですけど」
「……なるほどな。そして、低音の基礎である『お前のチューバ』が鳴らなければ、その大合奏は成立しない」
根露くんは、鋭い瞳で木管楽器の生徒たちを順番に見回した。
「……愛瑠来ならば、ここで優しく微笑みながら紅茶を差し出すのだろうが、余にそのような無駄な配慮を求めるな。……犯人は、大輝を憎んでマウスピースを隠したわけではない。
……ただ『合奏練習を強制的にストップさせ、己の肉体を休ませるための大義名分』が欲しかっただけだ」
根露くんの言葉に、木管楽器の生徒たちの中に、サッと顔色を変えた者がいた。
クラリネットを担当している一年生の女子生徒、莉子さんだ。
「……そこのクラリネットの一年」
根露くんは、莉子さんを指差した。
「……貴様の『右手の中指の付け根』。テーピングの下から、僅かに血が滲んでいるな」
「……っ!」
莉子さんは、ハッとして自分の右手を隠した。
#2
「……クラリネットという楽器は、その重さのすべてを『右手の中指一本』に乗せて支える構造になっている」
根露くんは、気怠げに解説を始めた。
「……連日の過酷な練習により、貴様の指には巨大なマメができ、それが潰れて悲鳴を上げていたのだろう。だが、厳しい顧問や先輩の前で『指が痛いから休ませてください』と言い出すことはできなかった。
……だから貴様は、コルクグリスを塗るふりをして席を立ち、合奏の要であるチューバのマウスピースを隠した。……『チューバが吹けないなら、合奏は中止。各自休憩』という状況を作り出し、合法的に己の指を休ませるためにな」
音楽室が、静まり返った。
莉子さんはポロポロと涙を流し、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい、大輝先輩。……私、どうしても今日これ以上楽器を支えるのが痛くて……でも、私のせいで合奏を止めるなんて言えなくて……。マウスピースは、私の楽器ケースの中に隠しました」
莉子さんがケースの中から銀色のマウスピースを取り出し、大輝くんに手渡した。
「……莉子ちゃん、お前……そんなに指が痛かったのか。言ってくれればよかったのに」
大輝くんは、怒るどころか、後輩の痛みに気づけなかった自分を恥じるように眉を下げた。
「……事件は解決だ。さらん、帰るぞ」
根露くんは、よっこらせとパイプ椅子から立ち上がった。
「……おい、一年。貴様の『痛みを隠して耐えようとした自己犠牲の精神』など、余から言わせればただの自己満足であり、非効率の極みだ」
根露くんは、振り返りざまに莉子さんを見下ろした。
「……だが。己の肉体を休ませるために、他人の楽器のパーツを隠蔽し、部活全体を機能不全に陥らせて強制的に『休憩時間』を創出させたその手腕。……その『サボタージュへの果てなき執念と怠惰なる工作』。
……実に素晴らしい。余は高く評価してやろう。胸を張って休め」
それは、究極の面倒くさがりである根露くんなりの、不器用すぎる「後輩への労い」だった。
莉子さんは目を丸くした後、フフッと吹き出し、「……はい、ありがとうございます」と涙を拭った。
大輝くんも「先生には、俺から莉子ちゃんの指のこと言って、今日は木管は休みにしてもらいます!」と笑ってくれた。
#3
「……はぁ、はぁ……。信じられん、この余が、自らの足で歩き、証拠を分析し、他人の心理まで読み解く羽目になるとは……。消費カロリーが致死量に達している……」
旧視聴覚室に戻った根露くんは、無重力チェアに倒れ込むなり、文字通り燃え尽きたように深い眠りに落ちてしまった。シロが「お疲れ様」と言うように、彼のお腹の上で丸くなる。
ガラッ。
「ただいま戻りました。やれやれ、名古屋のパーツ屋は混んでいて疲れたよ」
「遅くなって申し訳ありません。お茶会、思いのほか長引いてしまいまして」
ドアが開き、大きな紙袋を持った写楽くんと愛瑠来さんが帰ってきた。
二人は、白目を剥いて爆睡している根露くんを見て首を傾げた。
「……珍しいな、王様が汗をかいて寝ている。悪い夢でも見たのか?」
写楽くんが不思議そうに言うと、私はクスッと笑って答えた。
「……ううん、すごくカッコいい『強制労働』の夢を見てたみたい。二人の役割、ちゃんと一人で完璧にこなしてたわよ」
五月九日、土曜日。
写楽と愛瑠来が不在の視聴覚室で起きた、安眠を脅かす危機。
王である根露は、不本意ながらも自らの足で立ち上がり、完璧な「物理」と「心理」の代行によって、見事にその平和(昼寝)を守り抜いたのだった。
【第百五十一章:土曜のチューバと、王の強制労働(後編) - 了】




