第百五十三章:火曜の振り子と、探偵たちの完全分業
#1
五月十二日、火曜日。
少しずつ日差しが初夏の強さを帯び始め、窓を開け放つと心地よい風が通り抜ける放課後。
旧視聴覚室には、愛瑠来さんが淹れた、爽やかな酸味のあるハイビスカスティーの香りが満ちていた。
私、さらんは、冷たいグラスの結露を指でなぞりながら、火曜日の穏やかな時間を楽しんでいる。
部屋の中央では、王、根露くんが『無重力チェア』に深く身を沈め、白猫のシロと共に、もはや芸術的とも言える完璧な午睡(お昼寝)の海を漂っている。
コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、白衣を着た科学部の一年生、理久くんが部室に入ってきた。
「……あの、視聴覚の皆さん。物理準備室のことで、ちょっと変なことがあって……」
「理久くん、お疲れ様。物理準備室で変なこと?」
私が声をかけると、パソコンのモニターを睨んでいた写楽くんが、静かに立ち上がった。
理久くんは、戸惑ったようにスマートフォンの写真を見せた。
「……物理準備室の天井から、実験用の『重い真鍮製の振り子(フーコーの振り子)』が吊るしてあるんですけど。……毎週火曜日の朝、僕が一番に鍵を開けて部屋に入ると、なぜかその振り子が『かすかに揺れている』んです」
写真には、太いワイヤーの先に吊るされた、ソフトボールほどの大きさの金属の重りが写っている。
「……月曜日の放課後、最後に戸締まりをした時には、絶対にピタリと静止していたはずなんです。夜中に誰も入れないはずなのに、火曜の朝になると必ず揺れている。……もしかして、ポルターガイスト現象とか……?」
「……特定の曜日における、密室での振り子の微細な振動か」
写楽くんは、静かに理久くんのスマホを受け取った。
彼は画像を極限まで拡大し、真鍮の重りの表面を舐めるように観察する。
やがて、写楽くんは事も無げに眼鏡を押し上げた。
「……理久くん。ポルターガイストなど存在しない。これは人間の手による、極めて物理的な接触の痕跡だ」
写楽くんは、淀みない口調で演繹を開始した。
「……画像のこの部分。振り子の重りの側面に、微細な『擦り傷』と『黒い付着物』がある。
……傷の深さと反射率から、これはモース硬度の高い『チタン合金(グレード5)』と擦れた痕だ。そして黒い付着物は、柔軟性と耐久性に優れた合成ゴム……『フッ素エラストマー』の成分と一致する」
「……チタンに、合成ゴム?」
理久くんが目を丸くする。
写楽くんは、静かに結論を告げた。
「……チタン製のケースと、フッ素エラストマーのバンド。……これは、ハイエンドモデルの『スマートウォッチ(ウェアラブル端末)』の材質だ。
犯人は昨夜、この振り子の重りにスマートウォッチを巻き付けて固定し、意図的に揺らした。……物理的証拠(チタンの擦過痕とゴムの成分)から導き出せる『事実(WHOとWHAT)』はここまでだ。……僕の領域は、ここで終わる」
写楽くんは、それ以上の憶測……なぜ夜の物理準備室で、振り子に高価なスマートウォッチを巻き付ける必要があったのか……を一切口にすることなく、静かに愛瑠来さんへと視線を送った。
#2
「……完璧な物的証拠の提示です、写楽くん」
愛瑠来さんが、静かな拍手と共に歩み出た。
彼の灰色の瞳が、スマホの画面に写る『揺れる振り子』を優しく見つめる。
「……しかし、なぜ犯人は、わざわざ『月曜日の夜』に、自分のスマートウォッチを振り子に巻き付けて一晩中揺らしておく必要があったのか。……人間の行動には、必ず『環境と実用的な理由』が存在します。ここからは、私の『灰色の脳細胞』の出番ですね」
愛瑠来さんは、理久くんに冷たいハイビスカスティーを手渡した。
「……理久くん。五月に入ってから、体育委員会が主催している『あるイベント』が全校で行われていますね?」
「えっと……あ! クラス対抗の『五月のウォーキング・チャレンジ』です! 毎日の歩数をアプリで集計して、クラスの平均歩数を競うやつ……」
「……その通りです。そして、その歩数ランキングの『週間集計の締め切り』は、いつですか?」
愛瑠来さんは、優雅に微笑んだ。
「……毎週月曜日の、深夜24時です!」
「……すべてのピースが繋がりましたね」
愛瑠来さんは、両手を胸の前で静かに組んだ。
「……犯人は、月曜日の放課後の時点で、クラスの目標歩数に全く届いていなかったのでしょう。しかし、今から何キロも走ったり歩いたりするのは辛い。
……そこで犯人は、端末の加速度センサーの『仕様』を利用したのです」
愛瑠来さんの優しい声が、部室に響く。
「……スマートウォッチを振り子に巻き付け、一度大きく揺らして鍵をかける。重い真鍮の振り子は、空気抵抗が少なく、一度揺らせば数時間は止まりません。
……端末は、その規則正しい左右の揺れを『人間の歩行(腕の振り)』だと誤認し、夜中の無人の部屋で、自動的に数万歩という歩数をカウントし続けたのです。
……あれは幽霊の仕業などではありません。歩数のノルマを達成するために仕掛けられた、見事な『歩行の自動化システム』の痕跡なのです」
「……そういうことだったのか……!」
理久くんの顔から恐怖が完全に消え去り、呆れたような感嘆の表情が広がった。
「……自分で歩かずに、振り子に歩かせてたんだ! すごい発想だけど、それって完全にチートですよね!」
「……ふふっ。謎が解けてよかったわね。でも、機械を騙せても、自分の健康のためにはならないわよね」
私が微笑みかけると、理久くんは「はい! 次見つけたら、注意しておきます!」と笑い、晴れやかな顔で部室を後にした。
「……チタンとゴムという『事実』から、歩数計アプリの仕様と締め切りという『環境のハッキング』を導き出す。……見事だ、愛瑠来」
写楽くんが、心からの賞賛を送る。
「……ええ。写楽くんの揺るぎない証拠(事実)があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
無重力チェアの上で目を閉じていた王、根露くんから、静かな鼻息が漏れた。
「……歩数を稼ぎたいのであれば、端末を手に持って座ったまま腕を振り続ければ済むものを」
根露くんは、シロの喉を撫でながら気怠げに呟いた。
「……だが、それすらも自らの肉体を消費する無駄な労働とみなし、振り子という物理法則を利用して『運動の完全な自動化』を構築した。
……システムの仕様を突き、己は一歩も動かずにデジタル上のノルマだけを達成するその姿勢。……極限の怠惰が生み出した、美しきシステム・ハックだ。……余は高く評価してやろう」
「……王様、それ完全にズルを褒めてるだけですからね!」
私が笑ってツッコミを入れると、部室に穏やかで温かい火曜日の笑い声が響いた。
五月十二日、火曜日。
物理準備室の振り子の謎は、写楽の「物理的証拠に基づく事実の確定」と、愛瑠来の「システムの仕様と心理の解読」、そして王の「運動の自動化への賞賛」によって、一分の隙もなく美しく解き明かされた。
旧視聴覚室の探偵たちは、それぞれの絶対的な境界線(領分)を守りながら、初夏の風に吹かれていくのだった。
【第百五十三章:火曜の振り子と、探偵たちの完全分業 - 了】




