第百四十九章:金曜の鉄瓶と、愛瑠来の独壇場
#1
五月八日、金曜日。
連休明けの重苦しい一週間がようやく終わりを告げ、生徒たちの顔に週末への安堵感が広がり始める放課後。
旧視聴覚室には、愛瑠来さんが丁寧に淹れた、心を解きほぐすようなカモミールティーの香りが満ちていた。
私、さらんは、ソファーに深く腰掛け、一週間の疲れを癒やすようにカップの温もりを感じている。
部屋の中央では、王、根露くんが無重力チェアの上で白猫のシロを抱き、微動だにせず優雅な午睡に落ちていた。
コンコン、とノックの音が鳴り、料理部の部長を務める二年生の女子生徒、結衣さんが、困惑した顔で部室に入ってきた。
「……あの、視聴覚の皆さん。料理室のことで、ちょっと不思議なことが続いていて……」
「結衣さん、一週間お疲れ様。不思議なこと?」
私が声をかけると、パソコンのモニターを見ていた写楽くんが、静かに立ち上がった。
結衣さんは、スマートフォンの画面をテーブルに提示した。
「……料理室の棚の奥に、以前の先輩が置いていった『1.2リットルの南部鉄瓶』があるんです。すごく重いし、錆びやすいから、今の部員は誰も使っていなくて、電気ケトルばかり使ってるんですけど……」
結衣さんは、不思議そうに首を傾げた。
「……毎週金曜日の放課後、私が最後の戸締まりのチェックをすると、なぜかその鉄瓶が『ほんのり温かい状態』でコンロの上に置かれているんです。
……誰かがお湯を沸かして、中身を空っぽにしたみたいで。でも、誰かが料理室に忍び込んだ形跡もなくて……」
「……特定の曜日における、鉄製器具の無断使用か」
写楽くんは、静かにルーペとピンセットを取り出し、結衣さんのスマホ画像と、彼女が持参した『鉄瓶の底を拭き取ったティッシュ』を観察し始めた。
彼の鋭い双眸が、瞬時に痕跡をスキャンしていく。
……しかし、数秒後。写楽くんはゆっくりとルーペを置き、静かに首を振った。
「……結衣さん。申し訳ないが、今回の件に関して、僕から提示できる事実は『ゼロ』だ」
写楽くんの意外な言葉に、私と結衣さんは目を丸くした。
「……犯人は、鉄瓶でお湯を沸かした後、表面を乾いた布で完璧に拭き上げている。沸騰した鉄瓶の超高温によって指紋や皮脂などの生体反応は完全に蒸発し、DNAの痕跡すら熱で破壊されている。……現場は、文字通りの『完全な無菌状態』だ」
写楽くんは、事も無げに眼鏡を押し上げ、一歩後ろへと下がった。
「……物理的証拠が一切存在しない以上、演繹は不可能だ。……僕の領域は、今日は存在しない。愛瑠来、あとは頼む」
潔すぎる写楽くんの「パス宣言」。
その言葉を受け、部屋の奥から、静かな拍手と共に愛瑠来さんが歩み出た。
#2
「……証拠を完全に消し去るほどの、熱と丁寧な拭き上げ。……写楽様が物理の領域から身を引いたということは、ここには『犯人の純粋な心理(WHY)』しか残されていないということです」
愛瑠来さんの灰色の瞳が、結衣さんを優しく、しかし鋭く見据えた。
「……物的証拠がないのなら、私の『灰色の脳細胞』が、動機と習慣からただ一つの真実を導き出しましょう。……結衣さん。その南部鉄瓶ですが、以前使っていたという『先輩』は、どなたですか?」
「えっと……春に料理部を引退した、三年生の前部長です。すごく和食やお茶にこだわる人で、私物としてその鉄瓶を買って、部室に置いていったんです」
愛瑠来さんは、優雅に微笑んだ。
「……結衣さん。南部鉄瓶というものは、ただの調理器具ではありません。正しい使い方で長く使い込み、内側に白い『湯垢』の膜を定着させることで、水がまろやかになり、絶対に錆びない一生モノの道具へと成長する。……これを、愛好家は『鉄瓶を育てる』と呼びます」
「鉄瓶を、育てる……?」
「……ええ。しかし、鉄瓶の最大の敵は『湿気と放置』です。使わずに放置すれば、五月の湿気であっという間に赤錆だらけになってしまう。それを防ぐためには、定期的にお湯を沸かし、中の湯を完全に捨ててから『余熱(乾燥)』で水分を完全に飛ばさなければならないのです」
愛瑠来さんの静かな声が、部室に響き渡る。
「……結衣さん。今日のような『金曜日』の放課後、料理室の戸締まりが終わった後……学校はどうなりますか?」
結衣さんが、ハッとして息を呑んだ。
「……土曜日と日曜日は部活がないから……料理室は、丸二日間、完全に閉め切られたままになります……!」
「……すべてのピースが繋がりましたね」
愛瑠来さんは、両手を胸の前で静かに組んだ。
「……犯人は、その鉄瓶でお茶を飲みたかったわけでも、お湯を使いたかったわけでもありません。ただ『鉄瓶のメンテナンス』をしたかったのです。
……土日の二日間、湿気の多い料理室に放置されて、大切な鉄瓶が錆びてしまわないように。犯人は毎週金曜日の放課後、部員たちが帰った後にこっそりと料理室に入り、お湯を沸かして余熱で完璧に乾燥させていたのです。……指紋ひとつ残らないほど、丁寧に、愛情を込めて拭き上げて」
愛瑠来さんは、結衣さんに温かいカモミールティーを手渡した。
「……犯人は、引退した三年生の前部長です。
彼女は、自分が愛した道具を、後輩であるあなたたちに『使いなさい』と押し付けることはしなかった。重くて扱いづらいことを知っていたからです。……だから彼女は、いつかあなたたちが鉄瓶の魅力に気づいてくれる日まで、錆びないように密かに『育て続けて』くれていたのです。
……あれは無断使用ではありません。引退した先輩からの、不器用で、ひたむきな『料理部への愛情』なのです」
「……先輩が……!」
結衣さんの目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……私、重いからってずっと電気ケトルに逃げてて……先輩の大切な鉄瓶を、ずっと放ったらかしにしてました。……来週から、私がお湯を沸かします。先輩に、鉄瓶の育て方を教わりに行きます!」
「……ふふっ。謎が解けてよかったわね。先輩も、結衣さんがそう言ってくれるのをずっと待ってたと思うわ」
私が微笑みかけると、結衣さんは「はい!」と力強く頷き、晴れやかな笑顔で部室を後にした。
「……証拠ゼロの空間から、鉄瓶の性質と曜日の空白を読み解き、見えざる愛情を導き出す。……見事だ、愛瑠来。今回は完全に君の独壇場だったな」
写楽くんが、敬意を込めて愛瑠来さんに頷く。
「……ええ。写楽くんの『証拠がないという事実』の確定があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
無重力チェアの上で目を閉じていた王、根露くんから、静かな鼻息が漏れた。
「……阿呆どもめ。錆びるのが嫌ならば、テフロン加工の鍋か、メンテナンス不要のステンレス製ケトルを使えば済むものを。……わざわざ手間のかかる鉄器を維持するなど、非効率の極みだ」
根露くんは、シロの背中を撫でながら気怠げに呟いた。
「……だが、後輩に『道具を使え』と口うるさく指導する精神的カロリーの消費を避け、己の手で無言のメンテナンスを行うことで、後輩が自発的に気づくのを待つその姿勢。
……言葉によるコミュニケーションを極限まで削ぎ落とした、実に怠惰にして美しい教育的指導だ。……余は高く評価してやろう」
「……王様、先輩は別に指導をサボりたくて黙ってたわけじゃないですからね!」
私が笑ってツッコミを入れると、金曜日の放課後の部室に、穏やかで温かい週末の笑い声が響いた。
五月八日、金曜日。
料理室の鉄瓶の謎は、物理的証拠が一切存在しないという特異な状況の中、愛瑠来の「心理と習慣への深い洞察」によって、見事に、そして美しく解き明かされたのだった。
【第百四十九章:金曜の鉄瓶と、愛瑠来の独壇場 - 了】




