第百四十八章:木曜の分厚い壁と、探偵たちの完全分業
#1
五月七日、木曜日。
ゴールデンウィークの五連休が明け、学校全体が「休みボケ」と「五月病」の重苦しい空気に包まれている放課後。
旧視聴覚室には、愛瑠来さんが淹れた、頭をスッキリとさせるペパーミントティーの爽やかな香りが満ちていた。
私、さらんは、ソファーでカップを手に取りながら、連休明けの気怠い身体を少しずつ日常のペースへと戻そうとしていた。
部屋の中央では、王、根露くんが『無重力チェア』に深く身を沈め、白猫のシロと共に、連休中と寸分違わぬ完璧な午睡(お昼寝)の海を漂っている。
コンコン、と少し遠慮がちなノックの音が鳴り、図書委員の二年生、美桜さんが、重そうな本を抱えて部室に入ってきた。
「……あの、視聴覚の皆さん。図書室のことで、ちょっと不思議なことがあって……」
「美桜さん、連休明けから図書委員のお仕事お疲れ様。不思議なことって?」
私が声をかけると、パソコンのキーボードを叩いていた写楽くんが、静かに立ち上がった。
美桜さんは、抱えていた分厚く巨大な本をテーブルにドンッと置いた。
それは、背表紙の厚さが10センチ、縦の長さが30センチ以上もある、非常に重い『世界原色図鑑(植物編)』だった。
「……毎週木曜日の朝、私が図書室の鍵を開けて見回りをすると、一番奥の、書架の陰になって死角になる机の上に、必ずこの図鑑が置かれているんです。……しかも、いつも決まって『同じページ』を開いた状態で、本が立てて置いてあって……」
美桜さんは、困ったように図鑑のページを開いた。
「……貸出記録には残っていないんです。誰かが朝一番に図書室に忍び込んで、わざわざ一番重いこの図鑑を奥の机に運んで、広げているみたいで……」
「……特定の曜日における、重量書籍の定期的な配置か」
写楽くんは、静かにルーペとピンセットを取り出し、美桜さんが開いた図鑑のページに顔を近づけた。
彼の鋭い双眸が、ページの紙質と、表面に付着した微細な痕跡を瞬時にスキャンしていく。
やがて、写楽くんは事も無げに眼鏡を押し上げた。
「……美桜さん。これは嫌がらせでも、熱心な植物マニアの仕業でもない。極めて明確な『身体的反応』の痕跡だ」
写楽くんは、淀みない口調で演繹を開始した。
「……まず、このページの端に付着している、数ミリの半透明なシミ。これは水滴ではない。微量な塩化ナトリウムと、リゾチームというタンパク質を含んだ液体……人間の『涙』が乾いた痕だ。
……そして、シミのすぐ横のページの隙間に、極細の『赤い繊維』が挟まっている。材質はポリエステル。この学校の指定制服で、この色のポリエステルを使っているのは、一年生の女子の『赤いリボン』だけだ」
「……一年生の女の子の、涙?」
美桜さんが目を丸くする。
写楽くんは、静かに結論を告げた。
「……毎週木曜日の朝、図書室の死角で、この図鑑を開きながら涙を流している一年生の女子生徒がいる。……物理的証拠(涙の成分とリボンの繊維)から導き出せる『事実(WHOとWHAT)』はここまでだ。……僕の領域は、ここで終わる」
写楽くんは、それ以上の憶測……なぜ一年生の女子が、図書室で分厚い図鑑を開いて泣いているのか……を一切口にすることなく、静かに愛瑠来さんへと視線を送った。
#2
「……完璧な物的証拠の提示です、写楽くん」
愛瑠来さんが、静かな拍手と共に歩み出た。
彼の灰色の瞳が、テーブルの上の巨大な図鑑を優しく見つめる。
「……しかし、なぜその女子生徒が、泣くためだけの場所に図書室の死角を選び、わざわざ『一番分厚くて大きな図鑑』を机に立てて開く必要があったのか。……人間の行動には、必ず『切実な心理と環境要因』が存在します。ここからは、私の『灰色の脳細胞』の出番ですね」
愛瑠来さんは、美桜さんに温かいペパーミントティーを手渡した。
「……美桜さん。一年生にとって、今日のような『木曜日の朝』とは、どういう時間帯でしょうか。……特に、連休が明けて五月病が蔓延するこの時期には」
「えっと……一年生の木曜の一時間目は、確か学年全体で『数学の小テスト』がある日です。すごく厳しい先生で、合格点に達しないと放課後に重い居残り補習があるって……」
「……なるほど。高校に入学して一ヶ月。ただでさえ新しい環境に疲弊しているところに、ゴールデンウィークの連休で張り詰めていた糸が切れてしまったのでしょう」
愛瑠来さんは、優雅に、そして少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「……テストの重圧と、学校への足取りの重さ。しかし、彼女には『学校を完全にサボる(無断欠席する)』ほどの不良になる勇気はない。かといって、保健室に行けば養護教諭に理由を根掘り葉掘り聞かれてしまう」
愛瑠来さんは、両手を胸の前で静かに組んだ。
「……だから彼女は、朝一番の誰もいない図書室の奥に逃げ込んだのです。
……そして、この巨大な図鑑を開き、机の上に『立てた』。……美桜さん、この図鑑を立てて、その後ろに座ってみてください」
美桜さんが言われた通りに図鑑の後ろの椅子に座ると、縦30センチの図鑑が、彼女の顔をすっぽりと隠してしまった。
「……あっ!」
私と美桜さんの声が重なった。
愛瑠来さんの優しい声が響く。
「……お分かりですね。彼女は、植物の図鑑を読みたかったわけではありません。
……この広げて立てた分厚い図鑑を、自分の泣き顔と、辛い現実(学校)を遮断するための『物理的な壁』として使っていたのです。
……あれはイタズラではありません。連休明けのプレッシャーに押し潰されそうになった新入生が、必死に作り上げた『小さな心の避難所』なのです」
「……そうだったんだ……」
美桜さんの顔から戸惑いが消え去り、深い共感の表情が広がった。
「……私、本を片付けないことに腹を立ててたけど、そんなに思い詰めてたなんて。……明日、あの机の図鑑の隣に、そっと『温かいココアのティーバッグ』と『いつでも図書室で休んでいいよ』っていう手紙を挟んでおきます。彼女の壁が、少しでも低くなるように」
「……ふふっ。素敵な配慮ね。きっとその子も、図書室が本当の居場所だと思えるようになるわ」
私が微笑みかけると、美桜さんは「はい!」と力強く頷き、図鑑を大切そうに抱えて部室を後にした。
「……涙という『事実』から、五月病と防壁という『心理』を導き出す。……見事だ、愛瑠来」
写楽くんが、心からの賞賛を送る。
「……ええ。写楽くんの揺るぎない証拠(事実)があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
無重力チェアの上で目を閉じていた王、根露くんから、静かな鼻息が漏れた。
「……阿呆どもめ。数学のテストが嫌ならば、図書館に逃げ込むのではなく、諦めて0点の白紙の答案を出せば済むものを。……そうすれば、最低限のカロリー消費でテスト時間は終わる」
根露くんは、シロの背中を撫でながら気怠げに呟いた。
「……だが、知識を得るための書物を『読書』という本来の目的で使わず、ただの『物理的な防壁』として流用し、現実からの逃避という目的のみに特化させたその姿勢。
……意味や価値を削ぎ落とし、質量のみを利用したその見事な怠惰と逃避行。……余は高く評価してやろう」
「……王様、それ結局、現実逃避してること自体を褒めてるだけじゃないですか!」
私が笑ってツッコミを入れると、連休明けの気怠い部室に、クスリと笑える穏やかな空気が広がった。
五月七日、木曜日。
図書室の分厚い図鑑の謎は、写楽の「物理的証拠に基づく事実の確定」と、愛瑠来の「環境と心理への深い洞察」、そして王の「現実逃避への賞賛」によって、一分の隙もなく美しく解き明かされた。
旧視聴覚室の探偵たちは、それぞれの絶対的な境界線(領分)を守りながら、五月の新しい日常へと足を踏み入れるのだった。
【第百四十八章:木曜の分厚い壁と、探偵たちの完全分業 - 了】




