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執有瑠高校(とあるこうこう)の事件簿  作者: さらん


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第百四十七章:合宿のハザードと、王の絶対的怠惰(校外合宿編・最終話)


#1

五月四日、月曜日。「みどりの日」の祝日。


昨夜から降り続いた記録的な大豪雨は、夜が明けても勢いを増すばかりだった。


東三河の山間部に位置するロッジ『青風荘せいふうそう』は、完全に外界から孤立していた。


携帯電話の電波は圏外。固定電話の回線も落雷で沈黙。

そして何より致命的だったのは、ロッジから麓の町へ下る「唯一の山道」が、昨夜の土砂崩れによって完全に塞がれてしまったことだ。


「……ダメだ! バン(車)が出せない! 完全に泥と倒木で道が埋まってる!」


ずぶ濡れになって外から戻ってきた文芸部の涼太りょうた部長が、絶望的な声を上げた。


「……どうしよう、ラジオじゃ『この後さらに雨足が強まる』って言ってる。このロッジごと土砂崩れに巻き込まれたら……!」


後輩のけいくんをはじめ、文芸部の部員たちがパニックを起こし、荷物をまとめ始めている。


「……歩いてでも山を下りよう! 今ならまだ、泥を乗り越えて進めるかもしれない!」

「……待て。無謀なカロリー消費は死を招くぞ」


騒然とするエントランスに、静かな声が響いた。

機材の防水パックを終えた写楽しゃらくくんが、タブレットを片手に歩み出てきたのだ。


「……特定の閉鎖空間における、物理的な脱出経路の崩壊か」


写楽くんは、事も無げに眼鏡を押し上げた。

彼は、先ほど屋外のドローンカメラで撮影した映像をモニターに映し出した。


「……涼太先輩。道を塞いでいる土砂と倒木の総質量は、ざっと見積もって『15トン』を超える。君たちがスコップで掘り返して車を出せるような量じゃない」


写楽くんは、モニターに映る「山道の下り斜面」を指差した。


「……さらに、ここから麓までの数キロの道程には、すでに3箇所の土砂流出が確認できる。今の雨量と地盤の緩みから計算して、歩いて下山した場合、第二の土砂崩れに巻き込まれる確率は『78%』を超える」


写楽くんは、静かに結論を告げた。


「……泥を掘ることも、歩いて山を下ることも、物理的な自殺行為に等しい。……物理的データ(土砂の質量と確率計算)から導き出せる『事実(HOW)』はここまでだ。……僕の領域は、ここで終わる」


写楽くんは、脱出が不可能であるという絶望的な事実だけを提示し、それ以上の憶測を一切口にすることなく、静かに部屋の奥へと視線を送った。


#2

「……完璧な物理データの提示と、確率の証明です、写楽くん」

いつの間にか、人数分の温かいココアをトレイに乗せた愛瑠来えるきさんが、エントランスに立っていた。


彼の灰色の瞳が、恐怖で顔を引きつらせる文芸部員たちを優しく包み込む。


「……しかし、脱出が不可能だと証明されてもなお、皆さんの足は外へと向かおうとしている。……極限状態における人間の非合理的な行動には、必ず切実な『心理(WHY)』が存在します。……ここからは、私の灰色の脳細胞の出番ですね」


愛瑠来さんは、震える圭くんの手に、温かいココアの入ったマグカップを握らせた。


「……飲んでください。副交感神経を刺激し、心拍数を落ち着かせるのです」

「……愛瑠来さん、でも、ここにいたら土砂崩れで……!」

「……圭くん。今、皆さんの心を支配しているのは『正常性バイアス(自分だけは大丈夫だという思い込み)』の逆……すなわち『パニックによる視野の極端な狭窄』です」


愛瑠来さんは、優雅に、そして力強く微笑んだ。


「……人間は、未知の脅威に直面した時、『何もしないこと(停滞)』を最も恐れます。だから、外が危険だと頭で分かっていても、無意識に『行動(脱出)』を選ぶことで、無理やりにでも安心感を得ようとしてしまう。

……皆さんが山を下りようとしているのは、それが安全だからではありません。『動かずにはいられないという恐怖心』に急き立てられているだけなのです」


愛瑠来さんの静かな声が、部員たちのパニックを少しずつ解きほぐしていく。


「……恐怖という名の幻影から目を覚ましてください。パニックは酸素と体力を無駄に奪う最大の敵です。まずはここに座り、心を落ち着かせるのです」


愛瑠来さんの完璧な心理的ケアにより、文芸部の面々はようやく荷物を床に置き、ソファーへとへたり込んだ。


#3

「……だが、脱出できないなら、俺たちはどうすればいいんだ! このまま救助を待つにしても、ロッジの裏山が崩れてきたら……!」


涼太部長が頭を抱えた、その時だった。


「……フン」


一番安全なロッジの中央、暖炉の前の特等席。

すでに屋内に移動させられていた最高級ハンモックの上から、王、根露ねろくんの静かな鼻息が漏れた。


「……阿呆どもめ。生存確率を上げるために、わざわざ暴風雨の吹き荒れる危険地帯(外)へ歩み出ようとするなど、究極の非効率にしてカロリーの無駄遣いだ」


根露くんは、お腹の上のゴールデンレトリバーの耳を撫でながら、アイマスクを額に押し上げた。


「……少しは落ち着いて、己の周囲の『環境』を観察しろ。……貴様らのすぐ横の壁に、何が貼ってある?」


根露くんに促され、全員がリビングの壁……木枠に入れられた古いポスターに目を向けた。


「……え? これ……『東三河地区・土砂災害ハザードマップ』……?」


私が読み上げると、根露くんは気怠げに頷いた。


「……このロッジ『青風荘』の建っている場所だけが、マップ上で『白(安全地帯)』に指定されているのが見えないか。

……ここは、巨大な一枚岩(強固な岩盤)の上に建てられた施設だ。さらに、オーナーは数年前に裏山の斜面に強固なコンクリートの擁壁ようへきを増設している。……ここは単なる宿泊施設ではない。この一帯の『指定緊急避難場所』だ」

「指定緊急避難場所……!?」

「……そうだ。貴様らは、すでに『一番安全なシェルターの中』にいるのだ。……わざわざ安全地帯から飛び出し、致死率の高い泥水の中を行軍しようとするなど、愚かの極みだ」


根露くんは、フワァと大きなあくびをした。


「……備蓄の食糧も、自家発電の燃料も一週間分はあるとオーナーから聞いている。……政府や自治体の救助隊が、重機を使って安全に道を切り拓いてくれるまで、我々がなすべき『最も効率的で、最も生存確率の高い最高のアクション』はただ一つ」


根露くんは、ハンモックの中で再びアイマスクを深く被り、愛犬を抱き寄せた。


「……雨風を凌げるこの完璧な密室で、一歩も動かず、ただひたすらに温かい布団で『眠る』ことだ。……さらん、昼飯の時間まで余を起こすな」

「……王様、それ結局、自分が動かずに寝ていたいだけですよね!!」


私が全力でツッコミを入れると、エントランスを支配していた死の恐怖は完全に霧散し、文芸部員たちの中から、安堵の入り混じった爆笑が巻き起こった。


五月四日、月曜日。

翌朝、天候の回復と共に道の土砂は撤去され、私たちは無事に麓へと下山した。


文芸部は、あの極限の「缶詰状態」の中で凄まじい集中力を発揮し、秋の展示会用の原稿を完璧に仕上げてみせた。


絶体絶命のパニックは、写楽の「物理的な事実の確定」、愛瑠来の「恐怖という心理の鎮静」、そして王の「何もしないという怠惰にして最強の真理」によって、一分の隙もなく美しく制圧されたのだった。

【第百四十七章:合宿のハザードと、王の絶対的怠惰(校外合宿編・最終話) - 了】


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