第百四十四章:合宿の白紙原稿と、愛瑠来の思いやり(校外合宿編・第二話)
#1
五月二日、土曜日。午前八時。
写楽くんの完璧な物理検証により、「熱消去性インクとPCの排熱」を使った密室トリックが暴かれた、文芸部の執筆ルーム。
「……インクをすり替え、排熱を利用してまで、ただ原稿を『捨てる』のではなく『見えなくした』理由。……ここからは、私の灰色の脳細胞の出番ですね」
部屋の入り口に立っていた愛瑠来さんは、動揺する文芸部員たちに、トレイに乗せた冷たいレモネードを静かに配り始めた。
「……涼太部長。一つ確認させてください」
愛瑠来さんは、凍らせて文字を復活させた原稿の束を、涼太先輩に手渡した。
「……印刷された紙の文字は消えていましたが、あなたのノートパソコンの中にある『元のデジタル・データ』は、無事だったのではないですか?」
涼太先輩はハッとして、自分のノートパソコンを開いた。
「……あ、本当だ。デスクトップの原稿フォルダは、まったく手付かずで残ってる。……でも、だったら何でわざわざ紙の方だけ文字を消したんだ?」
「……それが、犯人の『優しさ』です」
愛瑠来さんは、灰色の瞳を細め、穏やかに微笑んだ。
「……もし、犯人が本当にあなたの原稿を憎み、執筆を妨害したかったのなら、データを完全に消去し、紙の原稿はシュレッダーにかけるか、窓から山の斜面に投げ捨てればよかったはずです。
……しかし犯人は、冷凍庫に入れれば復活する『サーマルインク』を使い、元のデータにも一切触れなかった。つまり、犯人はあなたの原稿を『絶対に傷つけたくなかった』のです」
「原稿を傷つけたくなかった……?」
「……ええ。犯人の目的は原稿の破壊ではなく、ただ一点。……『今日の午前中に行われるはずだった、恐怖のスケジュールを潰すこと』だったのです」
#2
愛瑠来さんは、部屋の隅のホワイトボードを指差した。
そこには、涼太部長が書いた、恐るべき合宿のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
『初日:午前7時起床。7時半から全員で部長プロットの読み合わせ&徹底討論。午後から執筆開始』
「……涼太部長。あなたは昨夜、この50ページのプロットを書き上げるために、午前3時まで徹夜をしていましたね」
「あ、ああ。合宿の初日に、どうしても最高のスタートを切りたくて……」
「……徹夜明けのテンションで、朝の7時半から50ページもの濃密なプロットのダメ出しと討論を行えば、どうなるか。……部長であるあなたは倒れ、他の部員たちも初日の午前中から精神的・肉体的に完全に燃え尽きてしまうでしょう」
愛瑠来さんの静かな声が、執筆ルームに響き渡った。
「……犯人は、それを見過ごせなかった。あなたの情熱は素晴らしいが、このままでは合宿そのものが破綻してしまう。だから『物理的に読み合わせができない状況』を作り出し、あなたと部員たちに『強制的な休息』を与えようとしたのです」
愛瑠来さんは、振り返り、机の上のゲーミングPCを見つめた。
「……タイマー起動で3Dのレンダリング処理を走らせたということは、そのソフトの操作に精通している人物。……文芸部の表紙イラストとDTP(データ編集)を担当している、二年生の圭くん。……あなたですね?」
#3
ビクッと肩を揺らし、俯いていた眼鏡の男子生徒、圭くんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……ごめんなさい、涼太先輩」
圭くんは、申し訳なさそうに深く頭を下げた。
「……先輩、この合宿のために、一ヶ月前からずっと寝不足だったじゃないですか。昨日の夜も、僕がトイレに起きた午前4時、先輩は机に突っ伏して気絶するように寝ていた」
圭くんは、ギュッと拳を握りしめた。
「……そんなボロボロの状態で、朝から討論会なんて絶対に無理です。でも、先輩は責任感が強すぎるから、俺たちが『休め』って言っても絶対に聞かない。
……だから、僕が持っていたフリクション用の補充インクをこっそりプリンターに入れて、僕のPCの排熱で文字を消しました。……原稿が『謎の消失』をすれば、先輩も諦めて、午前中くらいは寝てくれると思ったんです……」
「……圭……お前……」
涼太部長は、ホワイトボードの無茶なスケジュールと、自分の目の下の酷いクマを鏡で確認し、力なく笑った。
「……俺、そんなに周りが見えなくなってたんだな。……ごめん、圭。みんなも。俺の空回りで、変な心配かけちまった」
「……ふふっ。謎が解けてよかったです。圭くんの行動は少し強引でしたけど、すべては涼太先輩と、文芸部のみんなの身体を思ってのことだったんですね」
私、さらんが微笑みかけると、圭くんも涼太先輩も、照れくさそうに笑い合った。
「……排熱という『物理的事実』から、強制的な休息という『心理と優しさ』を導き出す。……見事だ、愛瑠来」
写楽くんが、心からの賞賛を送る。
「……ええ。写楽くんの揺るぎない証拠と熱力学の証明があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
開け放たれたウッドデッキの窓の外、最高級ハンモックの上から、犬を抱いた王、根露くんの静かな鼻息が漏れた。
「……阿呆どもめ。休息が必要ならば、最初から『初日は移動の疲れを癒やすために何もしない』とスケジュールに書けば済むものを」
根露くんは、心地よい山の風にハンモックを揺らされながら、気怠げに呟いた。
「……だが、狂気にも似た労働を粉砕するために、己のPCに働かせ、自動的に仕事を消し去るというその『怠惰なるサボタージュ』。……実に素晴らしい。余は高く評価してやろう。……さらん、昼飯の時間まで余を起こすな」
「……王様、合宿に来てまで何もしない気満々ですね!」
私が笑ってツッコミを入れると、山の上のロッジに、文芸部員たちのホッとしたような温かい笑い声が響いた。
五月二日、土曜日。
校外合宿の第一の事件『白紙原稿の謎』は、写楽の「物理的証明」、愛瑠来の「優しさの解読」、そして王の「怠惰への賞賛」によって、見事に解決された。
……しかし。
これはあくまで「優しい前哨戦」に過ぎなかった。
翌日、青風荘を、彼らの絆を試すような「本当の事件」が襲うことを、私たちはまだ知らなかった。
【第百四十四章:合宿の白紙原稿と、愛瑠来の思いやり(校外合宿編・第二話) - 了】
(第三話へ続く)




