第百四十二章:金曜のすきま風と、探偵たちの完全分業
#1
五月一日、金曜日。
明日から始まるゴールデンウィーク後半の五連休を前に、校舎全体が「早く帰って休みたい」という強烈な引力に支配されている放課後。
旧視聴覚室には、愛瑠来さんが淹れた、スッキリとしたアイス・ダージリンティーの香りが漂っていた。
私、さらんは、冷たいグラスの結露を指でなぞりながら、連休前のたまらない解放感に浸っている。
部屋の中央では、王、根露くんが『無重力チェア』に深く身を沈め、白猫のシロと共に、明日からの連休の予行演習とばかりに完璧な午睡(お昼寝)の海を漂っていた。
コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、美化委員の腕章をつけた一年生の女子生徒、ひなさんが、小さな紙の塊を手に部室に入ってきた。
「……あの、視聴覚の皆さん。北棟の三階の廊下で、ちょっと変なことがあって……」
「ひなさん、お疲れ様。いよいよ明日から連休ね。変なことって?」
私が声をかけると、パソコンの前でキーボードを叩いていた写楽くんが、静かに立ち上がった。
ひなさんは、手に持っていた『折りたたまれた硬い紙のブロック』をテーブルに置いた。
「……毎週金曜日の放課後、私が戸締まりの見回りをしていると、北棟の突き当たりにある小窓が、必ず『きっちり5センチだけ』開けられているんです。……そして、窓枠のレールには、ストッパーみたいにこの『折りたたまれた紙』が挟み込まれていて……」
ひなさんは、困ったように眉を下げた。
「……防犯のために閉めようとするんですけど、毎週金曜日に必ずこの紙が挟んであるんです。誰かが侵入するためにわざと隙間を開けているんじゃないかって、怖くて……」
「……特定の曜日における、窓ガラスの意図的な隙間とストッパーか」
写楽くんは、静かにルーペとピンセットを取り出し、その紙のブロックに顔を近づけた。
彼の鋭い双眸が、紙の材質と、表面に付着した微細な痕跡を瞬時にスキャンしていく。
やがて、写楽くんは事も無げに眼鏡を押し上げた。
「……ひなさん。外部からの侵入者でも、空き巣のマーキングでもない。これは校内の生徒による、極めて意図的な『工作』だ」
写楽くんは、淀みない口調で演繹を開始した。
「……まず、このストッパーに使われている紙。これは市販のコピー用紙ではなく、高い耐水性を持つ『五線譜のケント紙』だ。
……そして、紙の表面には、微かな化学物質の匂いと油分が付着している。成分は、真鍮の汚れを落とすための『ブラスソープ』と、ピストンの動きを滑らかにする『バルブオイル』だ」
「……ブラスソープに、バルブオイル?」
ひなさんが目を丸くする。
写楽くんは、静かに結論を告げた。
「……五線譜をストッパーの形に折りたたみ、楽器のメンテナンス用品を手に付着させている人物。……犯人は『吹奏楽部』の、金管楽器(トランペットやユーフォニアム等)の担当者だ。
毎週金曜日、吹奏楽部の部員がこの窓を5センチだけ開けている。……物理的証拠(紙質とオイルの成分)から導き出せる『事実(WHOとWHAT)』はここまでだ。……僕の領域は、ここで終わる」
写楽くんは、それ以上の憶測……なぜ吹奏楽部員が窓を5センチ開けるのか……を一切口にすることなく、静かに部屋の奥へと視線を送った。
#2
「……完璧な物的証拠の提示です、写楽くん」
愛瑠来さんが、静かな拍手と共に歩み出た。
彼の灰色の瞳が、テーブルの上の紙のストッパーを優しく見つめる。
「……しかし、なぜ吹奏楽部の部員が、わざわざ『金曜日の放課後』に、北棟の突き当たりの窓をきっちり『5センチ』だけ開けて固定する必要があったのか。……人間の行動には、必ず『環境と実用的な理由』が存在します。ここからは、私の『灰色の脳細胞』の出番ですね」
愛瑠来さんは、ひなさんに冷たいダージリンティーを手渡した。
「……ひなさん。その北棟の突き当たりの小窓から、少しだけ手前に戻った場所に、吹奏楽部が使っている『第一音楽室』のドアがありますね」
「あ……はい! 窓のすぐ手前が、音楽室です」
「……そして今日のような『金曜日』、あるいは明日から長期の連休に入る前日。吹奏楽部の金管楽器パートの生徒たちは、ある『重要なメンテナンス』を行います」
愛瑠来さんは、優雅に微笑んだ。
「……それは、楽器の管の内部をぬるま湯と洗剤で丸洗いする『管内洗浄(水洗い)』です。
……しかし、水洗いをした後、複雑に曲がりくねった金属の管の内部を完全に乾燥させないままケースにしまってしまうと、連休中にカビやサビが発生して、大切な楽器が台無しになってしまいます」
「……あっ!」
私とひなさんの声が重なった。
愛瑠来さんの優しい、しかし確信に満ちた声が響く。
「……そこで犯人は、流体力学の『ベンチュリ効果』を利用したのです。
音楽室のドアを開け放ち、すぐ横の突き当たりの小窓を『5センチだけ』開ける。すると、狭い隙間を通る風は流速を増し、廊下から窓に向かって『強力な通り抜けの風(すきま風)』が発生します」
愛瑠来さんは、両手を胸の前で静かに組んだ。
「……犯人は、そのすきま風の通り道に、洗い立ての楽器を並べておいたのでしょう。
……人間の手では届かない管の内部まで、強力な自然の風が吹き抜け、あっという間に水滴を乾かしてくれる。あれは侵入者の手引きなどではありません。明日からの連休中、大切な楽器を守るための、彼らなりの『見事な乾燥システム』なのです」
「……そうだったのか……!」
ひなさんの顔から恐怖が完全に消え去り、感嘆の表情が広がった。
「……楽器を乾かすための風の通り道だったんですね! 防犯上はちょっと困るけど、連休前に楽器を綺麗にしてあげたいっていう気持ちは、すごくよくわかります!」
「……ふふっ。謎が解けてよかったわね。でも、帰る前にはちゃんと閉めるように、美化委員から優しく注意してあげてね」
私が微笑みかけると、ひなさんは「はい! 吹奏楽部の人に伝えておきます!」と笑い、晴れやかな顔で部室を後にした。
「……オイルという『事実』から、水洗いとベンチュリ効果という『環境と心理』を導き出す。……見事だ、愛瑠来」
写楽くんが、心からの賞賛を送る。
「……ええ。写楽くんの揺るぎない証拠(事実)があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
無重力チェアの上で目を閉じていた王、根露くんから、静かな鼻息が漏れた。
「……タオルとスワブを使って手作業で管の内部を拭き上げるという、無駄な肉体労働を拒絶したか」
根露くんは、シロの背中を撫でながら気怠げに呟いた。
「……窓の開閉角度による気圧差を計算し、乾燥という労働を『地球の大気(風)』に丸投げする。……己の力を使わず、自然環境をフリーの従業員として酷使するその『圧倒的な怠惰と合理性』。……余は高く評価してやろう」
「……王様、それただ『自分が拭きたくなかっただけ』って言いたいんですか!」
私が笑ってツッコミを入れると、五連休を明日に控えた浮き足立つ部室に、穏やかで温かい笑い声が響いた。
五月一日、金曜日。
北棟のすきま風の謎は、写楽の「物理的証拠に基づく事実の確定」と、愛瑠来の「環境と愛情への深い洞察」、そして王の「自然を酷使する怠惰への賞賛」によって、一分の隙もなく美しく解き明かされた。
旧視聴覚室の探偵たちは、それぞれの絶対的な境界線(領分)を守りながら、明日から始まる黄金の連休を静かに迎えるのだった。
【第百四十二章:金曜のすきま風と、探偵たちの完全分業 - 了】




