第百四十一章:木曜の折り鶴と、探偵たちの完全分業
#1
四月三十日、木曜日。
明後日からの本格的なゴールデンウィーク後半戦を前に、「明日もう一日学校がある」というもどかしさと、すでに心は休みへと向かっている生徒たちの浮き足立った空気が交差する放課後。
旧視聴覚室には、愛瑠来さんが淹れた、心を落ち着かせるカモミールティーの甘い香りが漂っている。
私、さらんは、ソファーでカップを両手で包み、窓から見える夕暮れのグラウンドを穏やかな気持ちで眺めていた。
部屋の中央では、王、根露くんが無重力チェアに深く沈み込み、白猫のシロと共に、連休を先取りするような完璧な午睡(お昼寝)の海を漂っている。
コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、パソコン部の新入生、蒼太くんが、困惑した顔で部室に入ってきた。
「……あの、視聴覚の皆さん。第二PC教室で、ちょっと不思議なことが続いていて……」
「蒼太くん、お疲れ様。不思議なこと?」
私が声をかけると、自分のデスクでキーボードを叩いていた写楽くんが、静かに立ち上がった。
蒼太くんは、手のひらに乗せた「小さなもの」をテーブルにそっと置いた。
「……毎週木曜日の放課後、僕がPC教室の戸締まりに行くと、窓際の『12番ターミナル』の席だけ、マウスがキーボードの『左側』に移動させられているんです。……そして必ず、マウスの横にこれが置かれているんです」
テーブルに置かれたのは、水色の折り紙で作られた、一羽の『小さな折り鶴』だった。
しかしそれは、どこか歪で、羽の左右のバランスが悪く、くしゃくしゃと不器用に折られていた。
「……誰かのイタズラかと思ったんですけど、毎週必ず木曜日に置いてあるので、気になっちゃって」
「……特定の曜日における、マウスの左への移動と、歪な折り鶴か」
写楽くんは、静かにルーペを取り出し、その不格好な折り鶴に顔を近づけた。
彼の鋭い双眸が、折り紙の表面の微細な汚れと、折り目の構造を瞬時にスキャンしていく。
やがて、写楽くんは事も無げに眼鏡を押し上げた。
「……蒼太くん。これはイタズラでも呪いでもない。極めて明確な『身体的特徴』を持った人物の痕跡だ」
写楽くんは、淀みない口調で演繹を開始した。
「……まず、この折り鶴の表面には、微かな『白い粉末』と『茶色いシミ』が付着している。白い粉はチョークではない。医療用のギプスに使われる『硫酸カルシウム(焼石膏)』の粉末だ。そして茶色のシミは、消毒用のポビドンヨード液。
……さらに、折り紙の『折り目』を見てごらん。親指の爪でピシッとアイロンをかけたような鋭い線がなく、全体的に丸みを帯びている。これは、両手を使って折られたものではない」
「……ギプスに消毒液? 両手を使っていない?」
蒼太くんが目を丸くする。
写楽くんは、静かに結論を告げた。
「……マウスが左側に移動させられていたのは、右手が使えなかったからだ。
犯人は、最近『右腕を骨折』して石膏ギプスを巻き、左手一本だけで不器用にこの鶴を折った人物。……物理的証拠(石膏、消毒液、折り目の形状)から導き出せる『事実(WHOとWHAT)』はここまでだ。……僕の領域は、ここで終わる」
写楽くんは、それ以上の憶測……なぜ骨折した生徒が、PC教室で左手一本で鶴を折るのか……を一切口にすることなく、静かに部屋の奥へと視線を送った。
#2
「……完璧な物的証拠の提示です、写楽くん」
愛瑠来さんが、静かな拍手と共に歩み出た。
彼の灰色の瞳が、テーブルの上の不格好な折り鶴を優しく見つめる。
「……しかし、なぜ右腕を骨折した生徒が、わざわざ『木曜日の放課後』に、PC教室の『12番ターミナル』に座り、苦労して折り鶴を折る必要があったのか。……人間の行動には、必ず『切実な理由』が存在します。ここからは、私の『灰色の脳細胞』の出番ですね」
愛瑠来さんは、蒼太くんに温かいカモミールティーを手渡した。
「……蒼太くん。その『12番ターミナル』は、PC教室の中で一番奥の、窓際の席ですね。……そこから窓の外を見下ろすと、何が見えますか?」
「えっと……中庭を挟んで、ちょうど『サッカー部のグラウンド』が一番よく見渡せる特等席です」
「……なるほど。そして、今日のような『木曜日』の放課後。サッカー部では何が行われていますか?」
愛瑠来さんは、優雅に微笑んだ。
「あ……!」
蒼太くんが、ハッとして息を呑んだ。
「……週末の公式戦に向けた、レギュラー選抜の『紅白戦(練習試合)』です!」
「……すべてのピースが繋がりましたね」
愛瑠来さんは、両手を胸の前で静かに組んだ。
「……犯人は、サッカー部のレギュラー、あるいはエースストライカーだったのでしょう。しかし、不運な怪我で右腕を骨折し、週末の公式戦に出られなくなってしまった。
……グラウンドのベンチに座ってチームメイトの練習を見るのは、己の無力さを突きつけられるようで辛すぎる。だから彼は、誰もいないPC教室の窓から、こっそりと仲間たちの紅白戦を見守っていたのです」
愛瑠来さんの優しい声が、部室に響く。
「……そして、不器用に左手一本で折られた折り鶴。これは、千羽鶴の代わりです。自分がピッチに立てない代わりに、仲間たちの勝利と無事を祈って、彼がたった一人で折った『祈り』なのです。
……あれはイタズラなどではありません。試合に出られない悔しさと、チームへの愛情が詰まった、不器用で真っ直ぐなエールなのです」
「……そうだったのか……!」
蒼太くんの顔から疑問が完全に消え去り、胸を打たれたような感動の表情が広がった。
「……片手で折るの、すごく難しかっただろうな。……僕、あの折り鶴、捨てないでサッカー部の部室の前にこっそり置いておきます。彼のエールが、みんなに届くように」
「……ふふっ。素敵な計らいね。きっとサッカー部のみんなの力になるわ」
私が微笑みかけると、蒼太くんは「はい!」と力強く頷き、折り鶴を両手で大切に包み込んで部室を後にした。
「……石膏という『事実』から、グラウンドへの未練と祈りという『心理』を導き出す。……見事だ、愛瑠来」
写楽くんが、心からの賞賛を送る。
「……ええ。写楽くんの揺るぎない証拠(事実)があってこその、心理分析です」
愛瑠来さんが、深く一礼を返す。
「……フン」
その時。
無重力チェアの上で目を閉じていた王、根露くんから、静かな鼻息が漏れた。
「……怪我をした己の無力さを嘆き、炎天下のグラウンドで仲間の同情を買うという精神的・肉体的なカロリー消費を拒絶したか」
根露くんは、シロの喉を撫でながら気怠げに呟いた。
「……涼しい空調の効いたPC教室から、高みの見物で仲間を監視し、片手間の折り紙一つで己の存在意義を確立する。……極限まで無駄を削ぎ落とした、実に怠惰にしてVIPな練習参加だ。……余は高く評価してやろう」
「……王様、それは絶対に彼の純粋な青春を曲解してますからね!」
私が笑ってツッコミを入れると、明日の登校日を前にした少しだけ浮き足立った部室に、穏やかで温かい笑い声が響いた。
四月三十日、木曜日。
PC教室の折り鶴の謎は、探偵たちの完全分業によって、一分の隙もなく美しく解き明かされたのだった。
【第百四十一章:木曜の折り鶴と、探偵たちの完全分業 - 了】




