Dear My Brother(17)
「……お姉さん……?」
黙り込んだ陽千香に、蒼司が不安げな視線を向けてくる。
どうすれば良い? 御使い達の術が完成しても、支配格を討てなければ元の木阿弥だ。だが、悪魔を追い出すなんてどうやれば良いのか分からない。何か悪魔の嫌がるもの。悪魔の力を打ち消すもの。蒼司のことを救えるものは。
ふと。陽千香の脳裏に、あの時のことが甦った。蒼真を失いかけたあの日。彼が悪魔から受けた傷を癒し、生命の輝きを取り戻してくれた、あの光。
陽千香は蒼司の両肩に手を伸ばし、彼の顔を正面から覗き込んで訊ねた。
「蒼司くん。あなたの"本当の望み"は、何?」
「え……?」
首を傾げる蒼司に、陽千香は重ねて問う。
「志筑くんと……お兄さんとサッカーしたいとか、友達が欲しいとか、そんな上辺だけのものじゃない。あなたが今心から叶えたい、たった一つの望みは何?」
蒼司が真にそれを望んでくれれば、陽千香の能力はきっと応える。
逸らさず瞳を見つめる陽千香の耳に、「帰りたい……」、涙の混じった小さな叫びが届いた。
「兄貴のところに帰りたい……お母さんとお父さんに会いたい……!!」
陽千香は、蒼真と同じ顔をした少年の頭を軽く抱き締めると、彼の耳元で囁いた。
「任せて」
言葉と同時に、陽千香の全身から光が溢れた。歪みから生じる黒い靄を打ち払い、体育館全体に拡がっていくその光は、辺りに群れていた悪魔をも呑み込み、一瞬で光の奔流の中に融かしていく。
悪魔が一掃されていく様子を呆然と眺めながら、仲間達が動きを止める。
「こ、これはいったい……?」
「なんて……なんて温かい……」
「綾藤……?」
振り返った蒼真と視線が合い、陽千香は静かに微笑んでみせる。
今なら解る。これが、自分の能力の本来の使い方なのだ。悪魔が創り出した闇の中を照らし出し、そこに囚われた人の生きる力を呼び覚ます。悪魔を打ち倒すためではなく、悪魔に"抗う"ための能力。
宿主である蒼司の望みは、この世界では絶大な力を持つ。夢から覚めて、現実の家族の元へ帰りたい――悪魔が絶対に叶えることのできないその望みは、付け入る隙のない鉄壁の結界となって蒼司の心を護るだろう。自分の能力なら、その想いを形にすることができる。隠れ蓑にしていた蒼司から追い出されてしまえば、悪魔はこの場に姿を見せるほかなくなる。顕現させてしまえばこちらのものだ。陽千香には、心強い仲間が大勢いるのだから。
かくして、陽千香の読みは当たった。腕の中の蒼司が一瞬苦しげな声を漏らしたと思うと、その背中から黒い影が抜けていった。
床に降り立った影は、人の形をしていた。輪郭が朧げなのは全身から放たれる瘴気のせいか。全身を黒いローブのようなもので覆い、背には不気味な翼を負っている。目深に被ったフードのせいで顔はほとんど見えないが、微かに覗いた隙間から、髑髏のような昏い空洞が見えた。
『……おのれ人間、邪魔をするか……』
どこから響いてくるのか分からないような禍々しい声で言うと、悪魔はその場に立ち上がった。
『ここまできて逃しはせぬ……それは私の獲物……それの命は私が喰らう……!』
フードの奥の眼窩が光る。悪魔は地を滑るように動き出すと、蒼司を抱えて動けずにいる陽千香目掛けて肉迫した。ローブの中に隠されていた骸骨の腕を伸ばし、鋭い指の先端で陽千香の咽喉を掻き切ろうとする。
その側面を、噴き出す火炎が直撃した。怯んで距離を取った悪魔の視線の先には、良一とあやめの姿がある。良一の放った矢にあやめの風が追従し、煽られた炎が巨大な火球へと変化する。
『小癪な……!!』
襲い来る炎を避けきった悪魔は、しかし高速で飛来した何かに翼を穿たれ、前のめりになって地面に激突した。
圭介だった。自分の身長を越える氷柱を生み出した彼は、野球のバットを振る要領でハンマーをフルスイングさせる。柄頭に打ち砕かれた氷は、弾丸となって宙を飛び、悪魔のローブや翼の飛膜に次々と穴を穿っていく。
翼を封じられ、たまらず足で逃げ出した悪魔の背中を、馬鹿にするような声が追いかける。
「無様だねェ。それでもここの親玉かい?」
がくん、と体勢を崩し、悪魔は再び頭から床にぶつかった。腕を支えにして起き上がり、転んだ理由を訝るように足元を見る。ハサミか何かで切り取られたように、腰から下がなくなっていた。失くしたものは、少し離れた床の上に転がっている。惜しむように眺めていた悪魔の目の前で、まだ消滅せずに残っていたそれを、黒い鎌の柄の一突きが粉砕する。
もはや身動きの取れなくなった悪魔の上半身に、黒い影が覆い被さった。見上げた悪魔の視界には、青白い光を纏った雷獣の姿。金色の毛を逆立てながら悪魔を睨み下ろしていた彼は、凪のような声に押し殺しきれない怒りを込めてこう言った。
「さっき言わなかったか? 蒼司に指一本でも触れやがったら、消し炭すら残さねぇって……!!」
『お……おのれぇええええええええええええええええええ!!』
怨嗟を含んだ断末魔が、雷の轟音に掻き消される。青白い光の散った後には、ただ真っ黒に焦げた体育館の床だけが残されていた。
「……やっつけた、の……?」
呆然と呟く蒼司から身を離し、陽千香は笑顔で一つ頷いてみせる。
「ええ……終わったわ、全部」
「や……ったぁあああああああっ!!」
両腕を大きく伸ばしながら、圭介が叫ぶ声が響く。ほっとしたように笑顔を見せる良一と、堪えきれずに嬉し涙を零すあやめ。澄ました様子で肩を竦めた貴則の目元が、押し上げた眼鏡の奥で笑っているのが見えた。
そんな彼らの間を縫って歩いて来た蒼真は、蒼司の前にしゃがみ込むと、無言でわしゃわしゃと彼の頭を撫でた。蒼司を悪魔から解放した直後だというのに、どこか浮かない表情をしている。それも仕方のないことかもしれない。次にこうして言葉を交わせるのは、いつになるか分からないのだから。
蒼司の方もそれが分かっているのだろう。何か言おうと口を開きかけ、結局何も言わないまま噤む。
半端な励ましは却って彼らを苦しめる。陽千香は兄弟が無言で別れを惜しむのを、両手を握り締めて見守った。
目の前に、蛍のような小さな光が灯った。光は蒼司を中心にぽつぽつと出現し、まるで気泡のように上空高くへ昇っていく。光が一つ灯るごとに蒼司の身体から現実感が薄れていき、やがては向こうの景色が透けるようになっていた。
『心配いらない……もうじき界境世界が消えるから、悪魔の力で捻じ曲げられていたこの子の魂が、元の形に戻ろうとしてるだけ』
ミレイの言葉は、慰めにはならなかった。無言のまま俯いている蒼真に、とうとう蒼司が声をかけた。
「待ってるから」
顔を跳ね上げた蒼真に、蒼司はとびきりの笑顔を向ける。"明るい方の志筑"――かつてそう呼ばれていた少年に相応しい、人に元気を与えるような笑顔だった。
「病院で、待ってるから――!」
最後の光が灯って、弾けた。界境世界が同じようにして消えるまで、蒼真は弟の消えたその場所を、黙って見つめ続けていた。
あとちょっとだけ続きます。




