エピローグ ~夕焼け小焼け~(1)
白い扉の前に立ったまま動こうとしない蒼真を、陽千香は複雑な思いで見つめていた。
翌日。遅刻して登校する旨を学校に連絡した陽千香は、蒼真と待ち合わせて朝から病院に来ていた。病室の前に来るまでは陽千香を置き去りにする勢いだった蒼真は、しかし今、扉を開くことすらできずにじっとその場に佇んでいる。
気持ちは分からないでもない。界境世界であれだけ元気に動き回っていた彼が、こちらでは弱々しくベッドに横たわっていると思うと心が痛む。だが、蒼司は"待ってる"と言ったのだ。夢の世界と同じようにいかなくなるのは百も承知で、それでも蒼真に会いたいと。
「志筑くん……」
陽千香が促すと、蒼真は長いため息を一つ吐いた。それでようやく覚悟を決めたのか、扉の取っ手に手を伸ばし、ゆっくりとスライドさせていく。
カーテンの開け放たれた室内は明るかった。タッセルが外れているのだろうか、窓際の空調から吹き出す風に、薄い水色の生地が微かに揺れている。緊張した足取りで部屋の奥に進んでいく蒼真に続くと、陽千香はそっとベッドの上を覗き込んだ。清潔なシーツの向こうに、頬のこけた少年の顔が見えている。朝の陽の光を浴びてなお青白いその肌色に、陽千香の胸は締め付けられるようだった。
蒼司の枕元に立つと、蒼真は無言で手を伸ばした。夢とは違って真っ黒な髪の下に、自分とよく似た造形の顔。頭をそっと撫でた手を引いて、蒼真はそのまま沈黙した。隣に並んだ陽千香から、その表情は窺い知れない。だがきっと、いつものあの顔を浮かべているのだろう。陽千香はいたたまれなくなって、蒼真の服の袖を握った。
長い息を吐き出しながら、蒼真が無言で天井を仰いだ。陽千香は顔を背けて俯き、彼の感情が静まるのをじっと待つ。やがて蒼真が「行こう」と呟いたのを合図に踵を返し、病室を後にするべく扉の方へ向かう。
――その瞬間を、まさしく奇跡と呼ぶのだろう。扉に手をかけた陽千香達を呼び止めるかのように響いたのは、酷く間の抜けた台詞だった。
「……お腹空いた~……」
目を見開いて足を止め、蒼真と顔を見合わせる。慌てて振り返りベッドの脇に戻ると、そこには変わらぬ蒼司の寝顔がある。二人揃って幻聴でも聞いたのだろうか。動揺と失望がない交ぜになったような心境で立ち竦んでいると、その声はもう一度、間違いなくはっきりと、二人の耳に届いたのだった。
「……喋るの久し振りすぎて声が出なーい。俺の声こんなんだっけ? 夢の中と全然違うんだけど」
蒼真の目線が、吸い寄せられるように蒼司の顔を見つめている。陽千香も確かにこの目で見た。声に合わせて、蒼司の口元が動くところを。
「……カーテン閉めて。めっちゃ眩しい」
蒼司の目元が、眩しそうにきつく閉じられる。言われるままに、陽千香が急いでカーテンを閉めると、彼はようやく人心地付いたような息を漏らし、ゆっくりとその目を開いてみせた。
「……当たり前かもしんないけど、夢の中と見た目変わんないね兄貴。お姉さんも」
「蒼司くん……!!」
口元に手を当てて、震える声でその名を呼ぶ。目に込み上げてくる熱いものを指先で拭っていると、布団の中でもぞもぞと動いていた蒼司が、新たな注文を付けてきた。
「このベッドって動く奴……? 悪いけどちょっと起こしてくんない? 自力じゃ起き上がれないんだよね。力入んなくて」
ベッドの周囲を見回し、足元の方にぶら下がっていたコントローラーを操作してやると、ベッドの上半身側が少しずつ上に持ち上がっていく。背中がもたれるくらいの角度を残して止めると、蒼司は満足そうに笑った後、蒼真の方へ視線を向けた。
「兄貴ってば、さっきから何を呆けてんのさ。全部お姉さんにやらせちゃって、気が利かないったら――」
蒼司の台詞は、途中で途切れた。蒼司の頭を抱きかかえながら、蒼真が掠れた声を漏らす。
「ごめん……!!」
そのまま肩を震わせる蒼真を、蒼司は暫く呆然とした顔で眺めていた。やがて細い腕をそろそろと動かし、蒼真の背中に回して抱き締め返すと、くしゃりと歪んだ笑顔で言った。
「ただいま、兄貴」




