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第8章 風の扉 5

 機械の銀猫は、その後、ちょっと待ってと言いたげに空の彼方を見上げる。首をかしげるような感じで。

 ストーフィの視線の先に、何かきらめくものが現れた。

 それは透明なスライムのように、うねうねと形を変えながら、次第に近づいてくる。


「朝ごはん……?」


 七都は、その物体を眺めやる。

 それは、蝶の群れだった。

 この世界に初めて来たときから、七都の前に姿を現し続ける、透き通った蝶たち。

 それがまた出現した。砂漠にはいないはずの蝶たちが。

 蝶たちは、七都の体に舞い降りる。やはり七都が目標だったとしか思えなかった。

 七都は、髪や腕にびっしりとくっついた蝶を眺めた。

 ストーフィの頭にも、何匹か止まっている。


「つまり、腹ごしらえをしてから、出かけろってことか。……じゃ、遠慮なくいただこうっと」


 七都は蝶たちに感謝しながら、そのエディシルを体に入れた。

 それは、やはりあまりいい気分のものではなかったが、とにかく食事をしなければ体がもたない。これから砂漠を渡って行くのだから。 

 蝶たちは、七都の体の表面で銀の粉になり、跡形もなく分解した。ストーフィの頭の上の蝶も、残らず消えてしまう。


「わたし、リュシフィンさまにエディシルをあげなければならないのかな。ジエルフォートさまが言ったように」


 七都は、呟く。

 ストーフィは、もちろん答えなかった。オパール色の丸い目を七都に向けただけだ。

 ジエルフォートが言ったことを考え始めると、気持ちが暗くなる。

 カトゥースや蝶では追いつかない……。

 つまり、人間のエディシルやグリアモスのエディシルを得ないと、とてもリュシフィンにあげられるだけのエディシルを集められないということだ。


「でも、わたしは、元の世界とこの世界を行ったり来たり出来るもの。エディシルが足りなくなったら、戻って、大食いすればいいってことじゃない? 前にこの世界から帰ったときみたいに。体のエネルギーのもとは、ここではエディシルだけど、元の世界では普通に食べ物から摂取できる。そりゃまあ、食費が跳ね上がって、エンゲル係数もどどーんと高くなっちゃって、お父さんと果林さんを困らせてしまうかもしれないけど……」


 逃げ道――。

 アーデリーズの言葉が、頭をよぎっていく。


<あなたには逃げ道があっていいわね……>


 皮肉っぽく、彼女はそう言った。

 その言葉を聞いて、わたしはむっとしたけれど。

 結局、やっぱり、そういうことになっちゃうのかもしれない……。


「でもね。使えるアイテムは、遠慮なく使わなくちゃ。魔神族と人間のハーフのわたしには、それが出来るんだから」


 ナイジェルもアーデリーズも、どちらかの世界を選ばなければならないと、七都に言った。

 そして彼らは、この世界を選んだ。選ばざるを得なかった。

 でも、両方とも選ぶことは出来ないの?

 それは我がままで、贅沢で、ずるいことなのかな。


「この世界と元の世界。両方を自由に行き来する。したたかに。ナイジェルもアーデリーズも出来なかったことをわたしがやってみる。だって、お母さんはそういうことをやってたんだよ。リビングのあの扉を開けてね。途中でいなくなっちゃったけど……。だったら、わたしにも出来るんじゃない? ね? わたし、キディアスが期待するような、したたかな貴婦人を目指してみる」


 ストーフィの目の表面に、七都の言葉に同意したかのように、青い光がちらりと瞬いた。


 七都は、猫の目ナビを取り出した。

 風の扉の位置を調べておこう。

 そう思いかけた途端、ナビから赤い光がすうっと伸びる。

 それは砂の丘が重なり合う、そのずっと向こうを指し示していた。


「すごい。言葉に出さなくても、ちょっと思っただけで、赤い線が出た」


 さらに、前は真正面に持たないと線が見えなかったのに、今のこのナビは、どの角度から見ても赤い線は消えずに固定され、目的地を指し示していた。

 はるかにわかりやすく、使いやすくなっているようだ。


「バージョンアップしてる。ジエルフォートさま、ありがとう」


 七都は、目を細めて砂漠の彼方を眺めた。

 この線の先に、間違いなく、風の扉がある。

 わたしが到着するのを待っている……。

 赤い矢印は、七都のさまざまな不安を払拭するかのように、力強く、しっかりとした直線を描いていた。

 七都は、扉の映像を出してみようと思ったが、扉の前に立ったときの感激が半減するような気がしたので、それはやめておいた。

 扉を見るのは、その場所に着いてからだ。

 どんな扉なのか。色は? 形は? 材質とかは?

 それを楽しみにして、砂漠を渡って行こう。


「腹ごしらえも出来たことだし。今度こそ、出かけよう」


 七都は、ストーフィに話しかけるというよりも、ひとりごとを言うように、呟いた。


「瞬間移動し続けたらエディシルが減っちゃうから、あまり頻繁に使わずに、マイペースで歩いて行く。別にもう、あせる必要はないんだもの。時々気分転換に瞬間移動してもいいし」


 そして七都は、アヌヴィムの銀の輪を水筒からはずして、ストーフィの頭にはめた。


「やっぱりこれを付けとかなきゃ、区別つかないもんね。その他大勢のストーフィの中にまぎれちゃう。きみはわたしがアーデリーズからもらった、たったひとつのストーフィなんだから」


 もっとも、風の城には、ストーフィはこれしかいないから、区別はつくわけなのだが、突然ジエルフォートが、ストーフィを一ダースほど送ってこないとも限らない。

 七都がアヌヴィムの輪をはめると、ストーフィは嬉しそうなうるうる目で七都を見つめた。

 もちろん相変わらずストーフィは無表情で、単にそういうふうに見えただけなのかもしれなかったが。


「ところで、きみって歩くの遅かったよね」


 歩き出そうとした七都は、ちろんとストーフィを見下ろした。


「きみに合わせて歩くとペースが乱れちゃうし。やっぱり、背負って歩くしかないかな」


 いくら見た目より軽いからといって、やはり機械なのだ。しかもつるつるしていて、背負い心地も悪いに違いない

 けれども、頑張って背負うか、抱えるか、ぶらさげるかして行くしかなさそうだ。


 『おいで』と言おうとした七都の前で、ストーフィがいきなり両手を、ずぼっと砂の中に突っ込んだ。

 突然、ラジオ体操の前後に曲げる運動の前だけをしたような感じだった。


「え?」


 ストーフィはそのまま頭とおしりを上げ、四足になった。銀色の細い機械の尻尾が、高くぴんと伸びる。


「えええっ?」


 ストーフィは七都を一瞥し、四足状態のまま、砂煙をあげて猛然と走り出した。


「え――――っ?」


 滑らかな白い砂の上に、ストーフィの足あとが、ステッチされたように、きれいについて行く。

 たちまち砂の丘を駆け上がったストーフィは、そのてっぺんから得意げに七都を見下ろした。さっさと来たら? と言っているようだった。


「なんだ、猫っぽく四足歩行できるんだ。しかも素早いし。本物の猫よりも動きが軽いし……」


 七都はストーフィを追って、のろのろと砂の丘の斜面を上った。

 てっぺんに到達した途端、ストーフィはそこから消えた。

 砂の丘をぴょんぴょんと跳ねるように、ストーフィは駆け降りて行く。

 あっという間に、もうはるか下の谷付近にいた。

 機械なのだから、当然疲れることはないだろう。


「でも、こっちは生身なんだからね。加減してもらわないと、まったく……」


 七都はぶつぶつ文句を言いながら、砂漠を走って行くストーフィを眺めた。

 まるで、果てのない猫砂の上を喜んで飛び回っている、銀色の子猫のようだ。

 この砂漠をトイレにする猫がいたら、とんでもなく大きいだろうな……。

 七都は奇妙な感想を抱きながら、白い砂漠を歩く。

 ストーフィは、七都を案内するかのように、常に七都のはるか前方を走って行った。

 だけど、ストーフィがいてくれてよかったかもしれない。七都は、思う。

 機械とはいえ、気はなごむ。

 ある程度の知能と意思を持った動くものが近くにいて、かわいい動きをすると、顔が自然にほころんでくる。

 あれをくれたエルフルドさまに、感謝しないといけないな。

 どれだけ歩いても変化のない空と砂漠だったが、その景色を楽しむ余裕も、気持ちのどこかに、確かに生まれていた。

 その景色の中に、ストーフィが一匹いるだけで、アクセントになり、雰囲気も変わってしまう。


 フィルタリングされた太陽は、ラベンダー色の空の中で、次第に角度を変えた。

 七都は時々休憩を取りながら、歩いた。ストーフィに間を開けられたときには、瞬間移動して追いついた。

 太陽が地平に没し、空が不思議な瑠璃色に染まると、七都はマントにくるまり、ストーフィと寄り添って眠った。

 夜の空には、銀色の鏡のような月が、砂漠を照らして静かに廻る。

 けれども、どれだけ目をこらしても、七都には星々の姿は見えなかった。

 外界で微かに七都の目に映った星々は、魔の領域のドームの空を通すと、完全に消えてしまっていた。

 なんと不自然な空なんだろう。

 だが、そのおかげで、魔神族はこの中で暮らせているのだ。


 そうして、何度目かの晩が過ぎ、何度目かに太陽が上り――砂漠を歩いていると、いきなり前方に、扉が現れた。

 七都は、砂の丘の上から、その扉を眺める。

 ストーフィは既に、扉の前に到着していた。扉にすりすりしかねないくらい、近くにくっついている。


「あれが風の扉……」


 それは、宙に浮かんでいた。

 リビングのドアが、遺跡の空間にシュールに浮かんでいたように。

 氷で出来たような、透明な扉――。

 その表面には細かい銀の模様が入り、太陽の光を受けて、きらきらと輝いている。

 外界から地の都に入るときの門のような扉ほどではなかったが、やはり背の高い、大きな、聳え立つような扉だった。

 浮かんでいる扉の背後は、もちろん彼方まで砂漠だった。ラベンダーの空も相変わらず続いている。

 だが、おそらくそれは、目くらまし。

 あの扉のあるあたりが、地の都と風の都の境界なのだ。

 そして、扉から向こうは、風の都。

 機械だか魔力だかで、扉が浮いているように、そして、空も砂漠も果てがないように演出されている。


 七都は足早に砂の丘を降り、扉の前に立った。

 扉は、ぴったりと閉じられている。

 それが地の都に入ってきたときのように横にスライドするのか、それとも両開きになっているのかは、不明だった。

 扉が透明だとはいえ、それを透かして向こう側を垣間見ることは出来ない。白っぽい空間があることだけは、かろうじてわかる程度だ。


「やっとここに来たよ。とうとう来た。随分かかってしまったな……」


 七都は、扉の横に移動して、そのあたりの空間に手を伸ばしてみた。

 弾力を感じる。なまぬるい水の壁のような感触だった。それは七都の行動を阻んでいた。

 空も砂漠もその先に見えているのに、そこには行けない。それ以上進めないのだ。

 セレウスの館の窓に張られていたバリヤーのようなものなのかもしれなかった。


「やっぱり、地の都はここで終わりなんだ。このやわらかい見えない壁の向こうは、風の都……」


 七都は、再び扉の真正面に立つ。

 ストーフィは、まだ四足のまま、早く行こうよ、と言いたげに、七都をじっと待っていた。

 七都は扉の前で、しばし目を閉じた。心を落ち着けるために。


 えーっと。

 リュシフィンに会ったら、聞かなければならないこと。

 まず、お母さんのこと。

 お母さんがいるのはどこなのか。幽体離脱したときに行った、あの場所は?

 それから、あの冠のない魔王さまと、その恋人のこと。

 そんでもって、扉の向こうに閉じ込められている幽霊のこと。

 それよりも、夢の中に出てきた、あの少女。額に金の冠をはめて、エヴァンレットの剣を胸に刺された、あの女の子のこと……。

 それから、それから、もっとあったっけ。

 いろんな質問があったはずなのに、出てこない……。


 七都は、あきらめて、目を開けた。

 ストックしておいたはずの質問をたぐりよせようとすればするほど、頭の中は真っ白で、空っぽになって行く。


「まあ、いいや。おいおい思い出して聞いてみよう。ところでこの扉、どうやって開けるんだろ。自動ドアかな。それとも、どこかに取っ手かなんかがあって、それを探さなくちゃならない?」


 七都は、首にかけていた猫の目ナビを握りしめた。

 バージョンアップしたんだし、何かヒントになるものをくれるかもしれない。


 その時――。


 扉が動いた。

 七都は、はっとして顔を上げる。


 扉は音もなく二つに分かれ、両側に開いた。

 誰かが真ん中に立って、両手で滑らかに押し広げたように。

 だが、誰もいない。

 扉の向こうは、白い霧に包まれていた。


「やっぱり、自動ドアか。で、やっぱり、霧なんだ。地の都に入ったときみたいに」


 七都は、一回深呼吸をした。そして、傍らのストーフィを見下ろす。


「じゃあ、入るよ。なんか、どきどきする。足が、がくがくしてる」


 ストーフィは、大丈夫だよというふうに、七都のマントの裾を持った。


 そして、七都たちが風の扉の中に入ろうとしたとき。

 白い霧の中に、翼がはばたく音と、誰かの息遣いが聞こえた。

 七都は、前方を注意深く見つめる。

 霧の中に、一人の黒髪の少年が浮かんでいた。

 緑が溶けた金色の目、純白のマント。背中には、天使のような真っ白い羽根がはえている。

 しかめっ面をしたその美少年は、黙り込んだまま、七都をじっと眺めた。


「ナチグロ……!!」


 七都とナチグロ=ロビンは、風の扉をはさんで対峙した――。


 <ダーク七都Ⅳ・砂漠のお茶会 【完】>

最後まで読んでくださってありがとうございました。

この続きは「ダーク七都Ⅴ・風の城の番人」でどうぞ。

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