第5話:見たら抹殺だからな
ひかりには、なぜ周りの男たちが急に静まり返り、真っ赤になって視線を泳がせているのかが、さっぱり分からなかった。横須賀のクラブのトイレだって、混んでいれば男子トイレに堂々と入っていくくらいのノリが当たり前だったからだ。
一方、大森婦長は、顔をこれ以上ないほど紅潮させ、ワナワナと唇を震わせていた。お国のために命を捧げる覚悟の帝国淑女として生きてきた彼女にとって、男だらけの壕内で大声でトイレと言い放つひかりの姿は、衝撃を超えて恐怖すらあった。
(な、なんて羞恥心のない娘なのかしら……! 未来の日本はどうなってしまっているの……!)
壕内が気まずい沈黙に支配される中、佐藤一等兵が「あの……」と、おそるおそる泥まみれの床から一つのアルミのバケツを持ち上げて、ひかりの前に差し出した。
「看、護婦殿……。壕内で用を足す際は、このバケツを……。軍医殿も兵たちも、動けない重傷者は皆これを使っておりまして……」
その鈍く光る無骨なアルミのバケツを見た瞬間、ひかりの目が点になった。
「……は? マジで言ってる? ウチに、この男だらけのドロドロの穴の中で、そのバケツに向かってしろってこと?」
「は、はい……。外は敵の弾幕が激しく、一歩でも出れば肉片になりますので……」
バケツを見つめるうちに、ひかりの脳裏に、令和の学校でギリギリ卒業したミッション系中高の「歴史の授業」の記憶が、濁流のようにフラッシュバックしてきた。
教科書で見た、白黒のボロボロの兵隊たちの写真。ガダルカナルとか、ニューギニアとかいう、日本から遥か遠い南の島で、何万人もの男たちが飢えと病気でガリガリになって死んでいったという、あの「太平洋戦争」の現実。
(トイレットペーパーなんて気の利いたものがあるわけがない……。スマホの電波がないんじゃなくて、そもそもスマホが存在しない世界なんだ……)
ひかりの背筋に、初めて本物の冷や汗がツッと伝わった。今置かれている状況の、あまりにも「ありえない」リアルな歴史の重みが、ようやく少しずつ分かってきたような気がした。
そんなひかりの様子を見て、大森婦長が周囲の男たちに聞こえないよう、耳元に顔を寄せて蚊の鳴くような声で囁いた。
「……光さん。私はいつも、夜の闇に紛れて、米軍の機銃掃射の合間を縫って、ここから少し離れた大きなヤシの木の側の草むらで……用を足しています……。紙はありませんから、近くの大きな葉っぱを千切って使いなさい……」
その壮絶すぎる「ブナの女性衛生事情」のディテールに、ひかりは一瞬引いたが、すぐに「ヘッド」としてのド根性を持ち直した。さすがに男たちの前でバケツでするくらいなら、爆撃の中でハッパを使った方が100倍マシだった。
ひかりは、腰に刺さっていた横山少尉の軍刀を鞘に収め直すと、壕の入り口に向かって歩き出した。そして、振り返り、壕の中の男たち全員に向けて、今までで一番冷酷で、底冷えのする声を放った。
「いいか、テメエら。ウチが外に行ってる間、絶対にあんたら覗くなよ。」
ひかりの細い眉が吊り上がり、白ギャルメイクの奥の瞳が、かつて海兵隊の黒人を背負い投げした時の「ガチの修羅場の目」に変わる。
「もし、1ミリでも覗いた奴がいたら……マジで抹殺だからな。」
その瞬間、壕内の空気が、外の熱帯の熱気を完全に打ち消すほどに、ピキピキと音を立てて凍りついた。
横山少尉は思わず背筋を伸ばして「直れ!」の姿勢になり、佐藤一等兵はバケツを持ったまま彫刻のように固まった。彼女が本気で言っていること、そして逆らえば米軍の戦車に踏み潰されるより凄惨な目に遭うことだけは、戦場の男たちの本能が理解していた。
「……だ、誰も覗きはせん! 軍の規律にかけて、一歩も外は見ん!」
横山少尉が引きつった声で叫ぶ。
「……よし。ババァ、じゃなくて婦長、ちょっと付いてきて」
ひかりはそう言い残すと、泥まみれの赤十字の腕章を翻し、敵の砲弾が飛び交う夜のジャングルへと、トイレのために颯爽と飛び出していった。
(第6話へ続く)




