第三十六話 見ていた人はいた ―オーパス―
新しい学年が始まり、僕たちは男子部五年へ進んだ。
一組の教室には、昨年と同じ顔が多い。ただし、席の並びは大きく変わっていた。
ジャスパーの席は、もうない。
ディアモンは廊下側の前列、ルビアスは窓際、ペリドは中央の後ろへ移った。三人とも互いに離れ、朝の授業が始まるまで、自分の席で教科書を開いている。
昨年までなら、誰か一人がジャスパーの机へ行けば、残りも集まった。
今は、その中心になる机ごと消えている。
「フレッグ」
朝の課題を出し終えたところで、隣の席の生徒に呼ばれた。
「昨年の歴史のノート、まだ持っているか?」
「持ってるけど」
「休暇中の課題で、前の王朝との関係を確認したいんだ。昼に見せてもらってもいいか?」
「ああ。食堂へ持っていくよ」
相手は礼を言い、自分の席へ戻った。
これくらいなら、以前にもあった。僕が一組へ入れたのは成績のおかげなので、試験前にはノートや課題について尋ねられる。
変わったのは、男子生徒だけではなかった。
中央校舎の廊下で女子部の生徒とすれ違っても、急に話をやめられることが減った。
以前は、僕がジャスパーたちと同じ教室から出てきただけで、何人かがこちらを確かめた。四人のそばで話しているところを見た生徒には、僕まで同じ仲間だと思われていたらしい。
もちろん、近づいただけで逃げられるほどではない。
けれど合同授業で同じ卓になれば、女子生徒は先に端の席を選んだ。廊下で何かを尋ねても、必要な返事だけをして、すぐ友人のところへ戻った。
それが新学年になってからは、向こうから授業の予定を尋ねられることもある。
落とした手袋を拾って渡せば、普通に礼を言われた。
普通のことばかりだ。
だからこそ、なぜ今までと違うのか分からなかった。
*
新学年最初の合同舞踏練習は、中央校舎の舞踏室で行われた。
五年生は、年度末の卒業舞踏会にも参加する。そのため、今年は決められた動きを覚えるだけでなく、相手が変わっても間違えず踊れるよう、何度か組み替えて練習することになった。
「最初の曲では、身長の近い者同士で組みなさい。二曲目からは、教師の指示で相手を替える」
男子部と女子部の教師が、それぞれの列を整えていく。
僕は男子側の列の中央にいた。
昨年まで婚約者と組んでいた生徒もいるが、今日は練習なので全員が同じ扱いである。婚約者のいない者同士が余ることもないよう、教師が人数を数えていた。
「男子が一人多いな」
「女子部の欠席者が一名おります」
女子部の教師が名簿を確かめる。
「一曲ごとに、一人ずつ休ませましょう」
「では、最初は――」
名前を呼ばれる前に、女子側の列から一人が手を上げた。
「先生。わたし、最初はフレッグ様と組みます」
アメージュ・フレグラント嬢だった。教師は名簿から顔を上げる。
「フレグラントさん。相手を指定する必要はありません」
「でも、もう並ぶ場所が分かっていた方が早いでしょう?」
「フレッグは、よろしいですか?」
突然こちらへ聞かれ、姿勢を正す。
「はい。僕は構いません」
「では、最初の一組とします。ほかの者も、順に並びなさい」
フレグラント嬢が、僕の前まで歩いてきた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
手を取る。
練習用の曲なので、動きは難しくない。教師の拍子に合わせ、決められた歩数で進み、向きを変える。
フレグラント嬢は、踊りながら女子側の列を見た。
「シトリンは今日は別の組なの」
「見れば分かります」
「殿下はベリル様と、先に動きを確認しているわ」
「それも見えるけど」
「では、話すことがなくなってしまったわね」
「無理に話さなくていいんじゃないか?」
答えると、フレグラント嬢は少し笑った。
「あなた、思ったより普通ね」
「……何だと思っていたんだ?」
「ジャスパー様たちの近くに、もう一人いるでしょう」
「僕は四人と一緒に行動していない」
「今は知ってるわよ」
教師が手を叩く。
「そこ、足を止めない。次は右へ回る」
僕たちは半周して、元の位置へ戻った。
「では、前は知らなかった?」
「わたしはシトリンから聞いていたけれど、ほかの子は知らなかったでしょうね。あなた、同じ教室で、何度も四人へ話しかけていたでしょう」
「止めようとしていたんだ」
「遠くから見たら、何を話しているかまでは分からないもの」
それはそうだ。
僕も女子部の生徒が何人か集まって話しているところを見ただけで、誰が誰へ反対しているかまでは分からない。
「それが、どうして今は分かるんだ?」
「学院の調査があったでしょう。シトリンも殿下も、あなたが一斉集会の前から何度も止めていたと聞いているわ」
「止められなかった」
「止めようとはしたでしょう」
「でも教師へ報告しなかった。聞き取りでも、そこを注意された」
最初の曲が終わり、組んだ手を離す。
次の相手を指示するため、教師が名簿を開いた。けれどフレグラント嬢は、まだその場に残っていた。
「それは、あなたの悪かったところね」
「……ああ」
「教師へ知らせていれば、もう少し早く止められたかもしれない。自分で何とかできると思って、できなかった」
「そうだよ」
あの日の手帳には、自分が『止めた』と書いていた。
実際には言っただけで、四人は女子側の通路へ行った。僕は教師へ知らせず、その後ろを見送った。
「でも、聞かれたときに、それも話したのでしょう?」
「隠しても、仕方ないから」
「そこで『自分は何度も止めたのに、四人が聞かなかった』という話だけにする人もいるわよ」
「それでは事実と違う」
「だからよ」
フレグラント嬢は、僕がまだ分かっていないことに気づいたらしい。
「あなた、あの四人と同じ教室にいたのに、何度も止めたでしょう。聞かれたときも、自分まで立派に見えるような話をしなかった。教師へ報告しなかったことも、自分で認めた」
「それが、女子部の態度と関係あるのか?」
「あるわよ」
次の曲で組むよう指示された男子生徒が、少し離れたところで待っている。フレグラント嬢はそちらへ一度手を上げ、すぐ行くと知らせた。
「四人と同じ側だと思って避けていた子も、そうではなかったと分かったの。あなたを急に立派な人だと思ったわけではないわ」
「……そこは、はっきり言うんだな」
「だって、教師へ知らせなかったのは本当でしょう?」
「ああ」
「でも、同じではない。それだけ」
同じ教室にいて、同じ話を聞いた。
それでも、止めようとした僕と、女子側へ向かった四人は同じではない。
四人の中でも、その後の行動によって処分は違った。学院長は、一人ずつ話を聞くのだと言っていた。
「見ていた人はいたのよ」
フレグラント嬢が言う。
「あなたが、何をして、何をしなかったか。両方ともね」
「そうか」
「ええ。だから次は、まず教師へ言いなさい」
「次なんて、あってほしくないけど」
「それはそうね」
女子部の教師から名前を呼ばれ、フレグラント嬢は次の相手へ向かった。
二曲目は、僕が休む番になった。
壁際へ移り、踊っている生徒たちを見る。フレグラント嬢は別の男子生徒と組み、今度は何か楽しそうに話している。
僕にだけ、特別に親しくしたわけではない。
最初の相手が必要だったから声をかけ、踊っている間に、僕が不思議に思っていたことを説明した。それだけだ。
けれど、以前なら、その『それだけ』もなかった。
練習が終わると、女子部の生徒たちは西側の回廊へ、男子部は東側の回廊へ戻る。
出口近くで、先ほど手袋を拾った女子生徒とすれ違った。
「フレッグ様。先ほどはありがとうございました」
「いや。落ちたのが見えただけだから」
「それでも助かりました」
女子生徒は友人と並び、そのまま女子部へ戻っていった。
僕も男子部へ向かう。
教室へ戻ると、机の上に小さな手帳を出した。昨年の一斉集会の日には、『朝、止めようとした。四人は行った』と書き直してある。
新しい頁を開き、今日の日付を書く。
『フレグラント嬢から、見ていた人はいたと聞いた』
今度は、その下へ書き直す言葉を探す必要はなかった。




