第三十五話 二つ目をいただきます ―アメージュ―
食堂を出る前から、甘い林檎の匂いがしていた。
案内された談話室には、低い卓を囲むように長椅子と肘掛け椅子が置かれている。窓際にはまだ冬の名残を残した庭が見え、暖炉には細い薪が足されていた。
わたしたちが席へ着くと、すぐに茶と菓子が運ばれてくる。
最初に目へ入ったのは、半月の形をした小さな林檎菓子だった。薄い生地を何層にも重ね、縁をきっちり閉じて焼いてある。表面には細かな砂糖が振られ、切れ目から、飴色になった林檎が少しだけ見えていた。
その横には、木苺のジャムを挟んだ丸い焼き菓子と、黄色がかった小さなケーキが並んでいる。
「こちらのケーキには、レモンの皮を混ぜてあります」
給仕をしてくれた侍女が教えてくれた。
「林檎の菓子は、まだ温かいのでしょうか」
「はい。御席へお持ちする時刻に合わせて、焼き上げております」
「では、最初にそれをいただきます」
わたしが答えると、シトリンが横からこちらを見る。
「アメージュなら、そう言うと思ったわ」
「冷めてからでは遅いでしょう」
林檎菓子を一つ、皿へ取る。
殿下とトパーズ様は窓際の長椅子へ並び、ベリル様は殿下に近い肘掛け椅子へ座った。シトリンとコロンダム様は、その向かいの卓で、さっそく石垣の話を始めている。
コロンダム様は、先ほど玄関前で見ていた石を紙へ描いていた。
「白い筋は、このように石の途中で曲がっていました」
「ええ。真っ直ぐなものもありましたけれど、入口近くの石はその形でした」
「石を切り出す前から入っていた筋です。水に溶けた成分が、岩の割れ目へ入り――」
「コロンダム様」
シトリンが卓の中央を指す。
「まず、お菓子を取ってください」
「あとでいただきます」
「林檎のものは温かいうちの方がおいしいそうです」
「では、先に一つ」
コロンダム様は林檎菓子を皿へ取った。
けれど、すぐにまた紙へ向かう。
「この筋は、石を割る位置にも関係します。筋に沿って割れやすい場合と、逆に――」
「冷めてしまいますよ」
「まだ温かいです」
「召し上がっていないのに、どうして分かるのです?」
「触れば分かります」
「食べてください」
シトリンに言われ、コロンダム様はようやく菓子を一口食べた。
薄い生地が小さな音を立てて崩れる。
わたしも自分のものへフォークを入れた。表面はさくさくしているのに、中の林檎はやわらかい。甘いだけではなく、少し酸味が残っていた。香辛料の匂いと一緒に、葡萄酒らしい香りもする。
添えられた濃いクリームを載せる。
温かな林檎の上で、白いクリームの端がゆっくり溶けた。生地と一緒に口へ入れると、林檎の酸味がやわらぐ。
「おいしい……」
思わず言うと、侯爵夫人が笑った。
「林檎は、冬越しのものです。生のままでは少し水分が抜けていますが、火を通す菓子にはよく合うそうですよ」
「本当によく合います」
二口目には、さっきより多くクリームをつける。
向かいでは、トパーズ様も林檎菓子を食べていた。こちらはクリームをつけず、中の林檎を先に確かめている。
「この香辛料は、ロルカではあまり使いませんね」
トパーズ様が言う。
「あなた、そちらがお好きだったの?」
ラピス殿下が尋ねた。
「林檎はよく食べますよ」
「でも、二つ目を取るほど?」
「ロルカでは、林檎へこの香辛料を使わないので珍しいんです」
そう答えながら、本当に二つ目を皿へ取る。
「殿下は、召し上がらないのですか?」
「いただきます。ただし、わたくしは木苺の方を先に」
殿下は丸い焼き菓子を手に取った。上と下の生地の間から、赤いジャムが細く見えている。
ベリル様はレモンのケーキを選んだ。わたしの皿も、すでに空いている。
もう一度、林檎菓子の皿を見る。まだいくつも残っていた。
「アメージュ」
シトリンが、わたしの手元を見た。
「何?」
「今、二つ目を取ろうとしたでしょう」
「トパーズ様も取ったわ」
「私を理由になさらなくて結構ですよ」
トパーズ様に言われた。
「では、自分の意思でいただきます」
二つ目を皿へ載せる。
侯爵夫人が、今度は声を立てて笑った。
「遠慮なさらず召し上がってください。そのために小さく作らせたのですから」
「ありがとうございます」
これなら、あとで木苺のものも食べられる。
わたしが二つ目の林檎へクリームを載せている間にも、シトリンとコロンダム様の話は続いていた。
「石切り場では、筋の入った石を避けるのですか?」
「使う場所によります。大きな力がかかる部分には、割れ目の少ない石を選びます」
「石垣なら?」
「一つが割れても、すぐ全体が崩れる積み方でなければ使えます。先ほどの石垣も、石の大きさを揃えすぎていなかったでしょう」
「揃っている方が、崩れにくいのでは?」
「同じ高さの石ばかり並べると、横へ割れ目が続きます。途中に大きな石を入れると――」
コロンダム様は、まだ半分残っている林檎菓子を皿へ置き、紙へ何本か線を引いた。
侯爵夫人が、わたしの隣へ少し椅子を寄せる。
「フレグラント様」
「はい」
「ルドック様は、いつもあのようにシトリンへお話しになるの?」
声を抑えているけれど、内緒話というほどではない。シトリンたちには、こちらを気にする余裕がないだけだ。
「はい。最初からずっとですよ」
わたしは答えた。
「シトリンが一つ聞くと、次には図が増えています」
「学院へも、何度も?」
「事前に申請して、教師の方が同席した面会だけです。でも毎回、四半刻では足りませんでした」
「娘からも聞いているわ。質問が増える一方だと」
「コロンダム様の説明を聞くと、その途中で増えるんです」
「それでは、終わらないわね」
「終わらないと思います」
侯爵夫人は、夫と姉君の方を見た。
侯爵は茶を飲みながら、石垣の図を見ている。姉君はシトリンの手元にある手帳へ目を向けていた。
「ルライト様」
姉君がトパーズ様へ声をかける。
「失礼でなければ、少し伺ってもよろしいでしょうか」
「コロンダムについてですか?」
「ええ。殿下から、以前にも御紹介いただいております。ルドック侯爵家の四男で、大学では鉱山や水、運搬について研究なさっていると」
「その通りです」
「普段から、どなたへでもあのように?」
トパーズ様は、紙を挟んで話し続けている二人を見た。
「研究について尋ねられれば、誰にでも説明します」
「やはり、そうなのですね」
「ただし、相手が以前どこで分からなくなったかを覚え、次のために図を描き直すことは、あまりありません」
「そうなのですか?」
「大学の学生同士なら、資料を見せることはあります。しかし特定の方のために説明図を何枚も作り、学院へ面会を申請して通うコロンダムは、私も初めて見ました」
侯爵夫人の手が、茶器へ伸びた。空になったカップへ自分で茶を足す。
「女性とのお付き合いは、広い方でしょうか」
「いいえ」
トパーズ様の返事は早かった。
「研究室と鉱山と公使館を往復しているうちに、一月が終わるような男です。舞踏会へ出ても、床に使われた石を見ている可能性があります」
「それは、よく分かります」
姉君が玄関の方向を見た。
「今日も、屋敷へ入る前に石垣を見ておられましたもの」
「おそらく、御領地の石だと聞いてから楽しみにしていたのでしょう」
「シトリンに会うことではなく?」
わたしが尋ねると、トパーズ様は少し考えた。
「今のコロンダムに、二つを分けられるかどうかですね」
「どういう意味です?」
「御領地の石について、シトリン様から聞いたのでしょう?」
「はい」
「ならば、石を見ればシトリン様へ尋ねたい。シトリン様に会えば、石の続きを話したい。本人の中では、同じ一つの予定になっていると思います」
なるほど。
それなら、本人にどちらが目的か尋ねても、きっと困る。
「御家族についても、伺ってよろしいでしょうか」
侯爵が今度は尋ねた。
「もちろんです。長兄が侯爵家を継ぐ予定で、次兄は領地経営、三兄は軍務についています。コロンダムは家を継ぐ立場ではありませんが、家族との関係は良好です」
「大学を終えたあとは?」
「研究を続けるつもりです。ロルカへ戻るか、しばらくアルヴェインに残るかは、まだ決めていないはずです」
「人物については、ルライト様が保証なさいますか」
「はい。ただし、一つだけ」
トパーズ様は、途中になっていた二つ目の林檎菓子を食べ終えた。
「鉱山の話を始めたら、止める者を置いた方がよいでしょう」
「それなら、娘が止めています」
侯爵夫人が言う。
ちょうどそのとき、シトリンがまたコロンダム様の皿を指した。
「もう冷めていますよ」
「話しているうちに、少し時間が経ちましたね」
「だから先に召し上がってくださいと申し上げたのです」
「冷めると、生地が少し固くなります」
「それは食べる前から分かっていたことでしょう?」
コロンダム様は残りの菓子を口へ入れ、生地の断面を見た。
「この薄い層は、どのように作るのでしょう」
「折って重ねるのだと思います」
「間に空気が入っていますね。林檎の水分が多ければ、下側の層は焼けにくくなるはずです」
「それは、料理人に聞かなければ分かりません」
「伺ってもよろしいですか?」
「今から?」
二人の話を聞いていた侯爵夫人が、侍女へ声をかけた。
「この菓子を担当した者に、手が空いていれば来てもらって」
「かしこまりました」
しばらくして、白い上着を着た料理人が談話室へ入ってきた。
コロンダム様は、残った林檎菓子を一つの皿へ移して見せる。
「この生地の層は、薄く伸ばしたものを重ねたのですか?」
「生地の間へ油脂を挟み、伸ばしては折ることを何度か繰り返しております」
「林檎の水分で、底が崩れませんか?」
「切った林檎を先に煮て、水分を減らします。冷ましてから生地へ詰めるのも大切です」
「温かい菓子なのに、林檎は一度冷ますのですね」
「熱いまま包めば、焼く前に油脂が溶けてしまいますので」
「では、林檎を冷ます時間と、焼き上がりを合わせているのですか?」
「朝のうちに煮ております」
コロンダム様の質問に、料理人が一つずつ答える。
その横では、シトリンも聞いていた。
「林檎を煮るときに入れた香辛料は?」
「肉桂と丁子を少し。それから、香りの強い葡萄酒です」
「領地の林檎でも、同じように作れます?」
「もちろんでございます。酸味の残っているものが向いております」
鉱山と石垣の話は、いつの間にか林檎菓子へ変わっていた。
それでも二人の話し方は変わらない。片方が尋ね、片方が答え、分からないところは知っている人へ聞く。そして、そこからまた次の問いが増える。
料理人が厨房へ戻ると、コロンダム様は新しい紙を出した。
「生地を折る回数で、層の数が変わりますね」
「それも図にするのですか?」
「忘れないように」
「何に使うの?」
「今のところ、使う予定はありません」
そう答えながら、折った生地の断面を描き始める。
シトリンは、その紙を自分の方から見やすい位置へ動かした。
「一度折ると、何層になるのでしょう」
「間に油脂があるので、最初は――」
また説明が始まった。侯爵夫妻と姉君が、今度は三人とも同じ方向を見る。
わたしは三つ目に、木苺の焼き菓子を選んだ。
こちらの話も、当分終わりそうになかった。




