第三十一話 続きを聞く人がいません ―シトリン―
鉱石の標本箱も、山の断面模型もない。水を流した机はきれいに拭かれ、流し台の横には学院の実験器具が並んでいる。
「この間まで、ここに鉱山があったのにね」
私の隣で、アメージュが言った。
「鉱山そのものはありませんでした」
「模型の話よ」
「分かっているわ」
教師が配った器具を、四人掛けの机へ一つずつ並べる。
本日の授業では、金属を熱したときの変化を調べる。小さな炉と金属片、火鋏、それから温度を記録する紙が用意されていた。
以前、運搬車の模型が置かれていた場所には炉がある。
コロンダム様が何度も書き直していた説明札の代わりに、教師が黒板へ実験の手順を書いていく。
「シトリン」
「何?」
「そこ、三番目よ」
アメージュに言われ、手順を書き写していた紙へ目を戻す。二番目の次へ、四番目を書こうとしていた。
「ありがとう」
「やっぱり、まだ鉱山を見てるでしょう」
「炉を見ていただけよ」
「炉の向こうに、もうない模型を見てたのよ」
そこまで分かっているのなら、尋ねなくてもよいと思う。
教師が授業を始め、私たちは金属片を順に火へ入れた。赤くなるまでの時間を測り、冷えたあとの色や硬さを比べる。
同じ大きさに見えた金属でも、熱すると変化の仕方が違った。
その理由を教師が説明している間、私は手帳の端へ一つだけ書き留めた。
――鉱山で使う車の車輪には、どの金属を使うのか。
書いてから、授業の内容ではないと気づく。
それでも消さず、横へ小さな印をつけておいた。
*
ジャスパーが学院を去ってから、食堂では温かい料理を温かいうちに食べられるようになった。
考えてみれば、それが普通だ。昼食の途中で男子生徒が四人やってきて、頼んでもいない護衛について話し始める方がおかしかったのだ。
本日の献立は、白身魚を焼いたものと豆の煮込み、それに柔らかい白パンだった。
ラピス殿下は魚を切り分け、まだ湯気の立っている豆を口へ運んでいる。向かいのベリル様も、食事の途中で立ち上がる必要はない。
「静かですね」
アメージュが言った。
「食堂は、ずいぶん賑やかですけれど」
ラピス殿下は周囲を見回した。
下級生の卓では、水差しを倒しかけた生徒が隣の者と慌てて布を広げている。少し離れた席からは、次の合同授業で使う曲について話す声が聞こえた。
「そういう意味ではなくて。こちらまで誰も来ないという意味です」
「本来は、それが普通なのです」
ベリル様が答える。
「はい。今、思い出しました」
アメージュはパンを半分に割った。
「ラピス殿下は、これからも食堂で同じものを召し上がるのですよね?」
「ええ。どうして?」
「王宮から正式な回答が来たので、昼食だけ別室になるかもしれないと思ったんです」
「警備方法の見直しは行われますけれど、わたくしを教室や食堂から遠ざけるためではありません」
殿下は煮込みの中から豆を一つ、匙ですくった。
「それでは、学院へ留学している意味がありませんもの」
「よかったです。別室へ行かれたら、また焼き菓子の日を調べられなくなりますから」
「それを気にしていたの?」
「それだけではありません」
アメージュは少し考えたあと、付け加えた。
「でも、かなり大事です」
ラピス殿下が笑った。
近くの卓にいた女子生徒が、こちらへ椅子を寄せる。
「殿下! 午後の音楽で使う曲目表を、御覧になります?」
「ええ。見せてください」
以前なら、王女殿下へ話しかける前に、もう少し様子を窺っていた生徒だ。
ラピス殿下が学院の生徒として普通に食事をし、授業の課題に困り、アメージュと焼き菓子の話をしていることが、合同祭を通して以前より知られたのかもしれない。
曲目表は卓の中央へ広げられた。
私も覗き込む。次の合同授業では、四人から六人ほどの組で踊る曲を練習するらしい。相手を替えながら進むため、決まった男女で組む必要はない。
ジャスパーと踊らなくてもよいよう、教師へ別の相手を頼んだ頃とは違う。
誰と組むことになるかを見ても、嫌だとは思わなかった。
「シトリン、この曲、前にも踊ったことがある?」
「幼い頃に一度だけ。途中で相手が替わるところが難しかったと思うわ」
「また私とぶつからないでね」
「前にぶつかったのは、あなたでしょう」
「どちらでもいいけれど、今度は避けて」
「それは、ぶつかる方が言うことではありません」
曲目表を持ってきた生徒が笑う。
私も笑いながら、魚の残りを食べた。
昼食が終わるまで、男子側の席を見ることは一度もなかった。
*
午後の授業後、私は学院図書室へ本を返しに行った。
大学の鉱物研究室から借りた、坑道の排水についての本である。
合同祭前に一度返しかけ、まだ途中だからと借り直した。期限を少し延ばしてもらい、昨日ようやく最後まで読み終えた。
貸出簿を確認した司書が、本の裏表紙に挟まれた札を抜く。
「大学からの借受書ですね。こちらは明日の便で返しておきます」
「大学の方が、取りにいらっしゃるのではないのですか?」
「合同祭の展示品と資料は、先週すべてお返ししました。この一冊だけ貸出中でしたので、学院から届けます」
「そうですか」
司書は本を返却用の箱へ入れた。表紙がほかの本の下へ隠れる。
「もう一度お借りになります?」
「いいえ。読み終えました」
「では、大学へ戻しますね」
「お願いいたします」
図書室を出ると、廊下の向こうでは、アメージュが窓際へ立って待っていた。手にしているのは、女子寄宿舎から借りた物語の本である。
「返せた?」
「ええ」
「ずいぶん時間がかかったわね」
「借受書を確かめていただいただけよ」
アメージュは返却箱の方を見た。
「コロンダム様のところから借りた本でしょう?」
「研究室からよ」
「御本人から受け取ったのではなかった?」
「貸出簿には大学鉱物研究室と書いてあったわ」
「でも、選んでくれたのはコロンダム様でしょう?」
「そうね」
最初に大実習室へ行った日、坑道へ入った水をどこへ出すのか尋ねた。
その翌日、コロンダム様は大学から三冊の本を持ってきた。私はそのうち二冊を読み終え、一冊だけ借り直した。
読みながら、いくつも気になるところがあった。
鉱山からくみ上げた水を池へ溜め、細かな土を沈める方法。水に混じった成分によっては、そのまま川へ流せないこと。古い坑道を新しい排水路として使ったところ、途中で壁が崩れ、前より水が溜まった例。
手帳には、尋ねたいことが七つに増えている。
「シトリン。コロンダム様が来ると思っていた?」
「何のために?」
「本を取りに」
「大学へ戻すことは、最初から決まっていたわ」
「そうではなくて」
アメージュは私の顔を覗き込んだ。
「合同祭のあと、また学院へ来ると思っていたでしょう?」
すぐには答えられなかった。
合同祭が終われば、大学の展示も終わる。当然、研究室の人々は大学へ戻る。
コロンダム様は学院の生徒ではない。用事がなければ、大実習室へ来る理由もない。
「新しい試験が終わったら、続きを聞かせてくださるとおっしゃったの」
「その試験が、もう終わったと思ってる?」
「分からないわ」
「だから気になるのね」
「そういうことになるかしら」
「なると思うわよ」
アメージュは歩き出した。私も並んで、女子寄宿舎へ続く回廊へ向かう。
「ラピス殿下なら、御存じでは?」
「何を?」
「コロンダム様が、今どちらにいらっしゃるか」
「大学でしょう?」
「それくらいなら、私にも分かるわよ」
「では、何を聞くの?」
「……いつ学院へいらっしゃるか」
口にすると、思っていたより直接的な言葉になった。アメージュが横で笑う。
「やっぱり、待っていたんじゃない」
「続きを聞く約束をしたからよ」
「うん。それでいいんじゃない?」
「何が?」
「待っていたことが」
アメージュは、それ以上からかわなかった。
*
ラピス殿下に尋ねる機会は、その日の夕食後に訪れた。
女子寄宿舎の談話室で、私たちは翌週に提出する歴史の課題を進めていた。
卓の中央には参考書が積まれ、アメージュは三頁目の途中で手を止めている。ラピス殿下はロルカとアルヴェインで使われている制度の違いを確かめるため、二冊の本を交互に開いていた。
ベリル様は別の卓に座り、自分の課題を書いている。右手の手袋はもう外れていた。
「ラピス殿下」
「何でしょう?」
「コロンダム様は、大学へ戻られたのですよね?」
殿下が本から顔を上げ、微かに笑う。
「ええ。合同祭の翌朝には」
「その後も、王都に?」
「いいえ。今は北部の鉱山へ行っているはずです」
「鉱山へ?」
持っていたペンを置く。
「古い坑道の排水について、大学へ調査の依頼が入ったそうです。教授と学生が何人か向かい、コロンダムも同行しました」
「いつ、お戻りになるのですか?」
「予定では、二十日ほどと聞いております。出発してからもう二週間ですから、あと数日ではないかしら」
アメージュが課題の紙から顔を上げた。
「シトリン、聞いておいてよかったわね」
「何が?」
「大学で待っていても、いなかったじゃない」
「待ちに行くつもりはありません」
「では、王都にいないと分かって、安心した?」
安心した、というのも少し違う。
けれど、合同祭のあと一度も学院へ来なかった理由は分かった。
「鉱山の調査なら、新しくお話しになることが増えていそうですね」
そう答えると、ラピス殿下が口元へ手を当てた。
「ええ。それはもう、間違いなく」
「帰ってきたら、また長くなりますね」
アメージュが言う。
「おそらく、以前より」
殿下の返事に、ベリル様もうなずいた。
「調査中に描いた図も持ち帰られるでしょう」
「では、見せていただきたいです」
答えてから、三人がこちらを見ていることに気づく。
「……何です?」
「いいえ。シトリン様がお元気になられて、よかったと思いまして」
ベリル様が静かに答えた。
「私は、ずっと元気です」
「もちろんです」
「ベリル様、その返事は信じていないように聞こえます」
「そのようなことはございません」
ラピス殿下が笑い、アメージュも課題の上へ伏せるようにして笑った。
「もう。続けないと、消灯までに終わりませんよ」
私は参考書を開き直した。
けれど、歴史の課題へ戻る前に、手帳を一度だけ確かめる。
授業中に書いた、車輪へ使う金属のこと。排水の本を読みながら書いた、七つの質問。
その頁の一番上には、『鉱山について』とだけ書いてあった。
鉛筆を取り、その後ろへ少し書き足す。
――コロンダム様へ尋ねること。
これなら、帰っていらしたときに忘れずに済む。




