第二十五話 危険物だったのはあなたです ―ラピス―
合同祭は、この一件では中止にはならず、そのまま続いた。
管理棟の応接室へ移ってからも、窓の外では楽団の演奏が続いている。先ほど混乱の起きた馬車寄せは一時閉鎖されたが、別の中庭と校舎内の展示は、そのまま公開することになったらしい。
廊下を行き来する事務員の腕には、通行止めを知らせる札が何枚も抱えられていた。壁際に置かれた卓には、来賓へ出す予定だった茶器と焼き菓子が載っている。茶はすでに冷めていた。
「手を見せて」
隣に立つベリルへ、小声で頼む。
「問題ございません」
「見てから決めます」
差し出された右手には、薄い革の手袋がはめられている。手首の留め具を外してもらうと、親指の付け根が少し赤くなっていた。
「痛むでしょう?」
「マーチモンド令息を床へ伏せた際、石へ当てました。ですが拳銃を扱うのに支障はございません」
ベリルは手袋を戻し、指を二度曲げる。確かに動きに問題はないらしい。
「殿下のお召し物も、裾に少し埃がついております。お部屋へ戻りましたら、すぐ着替えましょう」
「わたくしの服より、あなたの手の方が大事だわ」
「どちらも大事です」
そう返されると、続けて何か言うのは難しい。
扉が開き、学院長と男子部四年の学年主任が入ってきた。その後ろには学院警備の責任者と、先ほどジャスパー様たちを監督していた教師がいる。
学院長は窓際の席へわたくしを案内し、警備責任者が向かいへ座った。卓の上には、すでに何枚かの記録用紙が用意されている。
「まず、事故そのものについて御報告いたします」
警備責任者が馬車寄せ周辺の見取図を広げた。
「仮設の案内板を固定していた紐が外れ、板が倒れました。その音で、来賓の馬車につながれていた馬が驚きましたが、御者がすぐ手綱を引き、厩務員とともに正門側へ移動させています。周囲の方々にも大きな怪我はありません」
「紐が外れた理由は?」
「午後から強くなった風で、上部の紐が外れたと見ています。設置した者から話を聞き、固定方法も確認しております」
見取図の上で、警備責任者の指が馬車寄せから中央玄関へ動く。
「ラピス殿下の近くには、学院警備員が一名、ロルカ側の近衛が一名、それにアマンド護衛官がおりました。馬が暴れた時点で、学院警備員が人の流れを止め、アマンド護衛官が殿下を指定の通路へお連れしています」
「ええ。わたくしも、そのように覚えております」
実際、わたくしは馬をよく見ていない。
ベリルに腕を取られ、石柱の奥へ移ったときには、学院の警備員が来賓を壁際へ寄せていた。馬が正門側へ移されたのは、その後である。
「本来でしたら、それで終わる出来事でした」
警備責任者の指が、見取図の反対側へ移る。そこには、ジャスパー様たちが備品を運んでいた場所が印されていた。
「マーチモンド令息は担当区域を離れ、殿下の避難経路へ向かいました。監督教師から停止を命じられましたが、従わなかったとのことです」
男子部の教師が記録用紙を一枚、卓の中央へ出す。
「私は、マーチモンドにその場で待つよう二度命じました。一度目は聞こえなかった可能性もあります。二度目は、こちらを見て返事をしました。そのあと、通常時ではないと言って走り出しています」
「ディアモン様たちは?」
「ディアモンも追おうとしましたが、ペリドが止めました。ルビアスは持ち場に残っています」
教師は用紙の端へ書かれた時刻を確かめた。
「ペリドには、ディアモンを押さえたまま警備員を待つよう命じました。こちらには従っています。二人とも、殿下の避難経路までは来ておりません」
少なくとも、三人が同じように動いたわけではない。
ルビアス様は最初から残り、ペリド様は途中でディアモン様を止めた。少し前までなら、四人ともジャスパー様についてきただろう。
「マーチモンド様は、今どちらに?」
「男子部の面談室におります。医務室で手首と背中を確認したあと、教師二名をつけました」
ベリルが伏せたジャスパー様を、学院警備員が引き取った。手を後ろへ回されながらも、彼は自分が何をしようとしたのか説明し続けていたという。
――助けようとした。
――危険があると思った。
――間に合わなくなる前に、動かなければならなかった。
……一体彼の中では、どんなことが起こっていたというのだろう?
「本人からも話を聞いたのでしょう?」
「はい」
学院長が、別の記録をわたくしの前へ置く。
「マーチモンドは、馬車寄せで馬が暴れたため、護衛が足りない可能性を考えたと申しております。混乱の中では一瞬の遅れが事故につながるので、教師の命令より殿下の安全を優先した、と」
「……護衛が足りないと、誰かから聞いたのですか?」
「いいえ。本人の判断です」
「学院警備員が二人いることは、見えていたのでしょう?」
「見えていたと申しています。ただ、事故に対応している警備員だけで、ほかに何者かが近づいた場合まで備えられるか分からなかったそうです」
警備責任者が見取図を畳み、端をそろえた。
「その点について、本人へ説明しました」
*
ジャスパー様が応接室へ連れてこられたのは、それから四半刻ほど後だった。
濃紺の制服の背には、石床へ伏せられたときについた白い埃が残っている。右手首には細い包帯が巻かれていた。教師に示された椅子へ座ると、まずわたくしを見て、その次にベリルの右手へ目を移す。
「殿下。御無事で何よりです」
「ええ。学院警備とベリルが、すぐに動いてくれましたから」
ジャスパー様の口が少し開き、すぐ閉じた。
学院長は彼の正面へ、先ほどの見取図と三枚の報告書を並べる。
「マーチモンド。確認を続ける。君は監督教師から待機を命じられた。それを聞いたうえで、担当区域を離れた。間違いないな」
「はい。ただ、あのときは非常事態でした」
「非常事態だからこそ、配置と命令に従う必要がある」
学院長の横で、警備責任者が一本の鉛筆を手に取った。見取図の避難経路へ、ジャスパー様が通った道を引いていく。
「あなたは、この位置で教師の命令を離れました。その後、警備員から停止を命じられ、さらにアマンド護衛官からも戻るよう命じられています。それでも進みましたね」
「護衛官は殿下から離れられません。ならば私が、外側を確かめるべきだと考えました」
「誰から、その役目を与えられましたか」
ジャスパー様の包帯が、膝の上でわずかに擦れた。
「誰からも与えられてはいません。しかし、私は軍務に就く家の者です。危険を前にして、何もしないわけには――」
「あなたが何者の息子であるかは、あの場の警備配置に関係ありません」
警備責任者は鉛筆を置き、見取図の印を一つずつ指した。
「学院警備員は、当日の配置と殿下の移動経路を事前に知らされています。服装と腕章も統一し、互いの担当を確認しています。アマンド護衛官とは、緊急時の合図も決めてありました」
「ですが、実際に馬が――」
「馬への対処は終わっていました」
窓の外で、演奏している曲が変わった。
馬車寄せの閉鎖を知らせる声も、もう聞こえない。事故が起きた場所では、倒れた看板を撤去し、落ちた菓子や花を片づけているころだろう。
「あなたには、警備員の腕章がありません。担当もなく、避難経路も知らず、現場の指示にも従わなかった。警備側から見れば、混乱に乗じて王女殿下へ近づこうとする者です」
「私は、そのようなことをする人間ではありません」
ジャスパー様の返事が重なった。
警備責任者は記録用紙へ一行書き加えてから、もう一度彼を見る。
「私どもは、非常時に相手の善意を確かめてから動くことはできません。停止を命じられても進み、護衛官を回り込もうとした者は、目的にかかわらず取り押さえます」
「私は殿下を害そうとしたのではありません。助けようとしたのです」
「そのつもりだったことは、記録へ残します」
警備責任者の手が、先ほど引いた線の終点で止まる。
「しかし、あの場で殿下の近くに新たに生じた危険は、あなたです」
ジャスパー様は見取図へ目を落とした。
教師が止めた。
学院警備員が止めた。
ベリルも止めた。
それでも彼は、全員より自分の判断の方が正しいと考えて進んだ。
「……危険というのは、実際に害する者を指すのではないのですか?」
……まだ、そこなのか。
わたくしが口を開く前に、男子部の教師が椅子を引いた。
「お前が何を考えているかなど、あの距離から分かるものか! 命令を無視して王女殿下へ向かう生徒がいれば、警備員はそちらにも人を割く。馬と群衆だけを見ていればよかったところへ、お前が別の危険を持ち込んだんだ」
「ですが先生、私は――」
「お前が危険物だった、と言っている」
椅子の脚が、床の上で短く鳴った。
「善意であろうが、伯爵家の息子であろうが、関係ない。止まれと言われて止まらない人間を、護衛対象へ近づける者はいない」
ジャスパー様は包帯の上へ左手を重ねた。
「……結果として、そう判断されたことは分かります。しかし、あの時点では、本当に危険がないと確定していたわけではありません」
「ええ。確定しておりませんでした」
ベリルが、わたくしの椅子の横から答える。
「ですから私は、殿下の周囲にいる者を一人ずつ確認しておりました。そこへ、命令を無視して近づくあなたが加わりました」
ベリルの右手は、腰の革製ホルスターに収めた小型拳銃の近くへ戻っている。
「あなたを排除している間、私は殿下の護衛と、あなたへの対処を同時に行わなくてはなりませんでした。学院警備員の一名も、あなたを拘束するため本来の位置を離れています」
「それは、あなたが私の説明を聞かなかったからでしょう」
「説明を聞くため、殿下の近くへ通すことはできません」
わたくしは、卓の上の見取図を自分の方へ引いた。
学院警備員の位置――ベリルがわたくしを連れて通った道――馬車が正門側へ移された道。
そこへ、鉛筆で一本余計な線が引かれている。
「マーチモンド様」
彼が顔を上げる。
「わたくしにとって、あの場で警戒しなくてはならない人間が一人増えました」
「殿下まで、そのようにおっしゃるのですか」
「わたくしがそう考えたからではありません。あなたが、そう扱われる行動をなさったのです」
ジャスパー様は何か言おうとして、学院長の方を見た。けれど学院長は記録を確かめ、男子部の教師は次の用紙へ日付を書いている。
助けようとした自分と、危険人物として拘束された自分が、まだ彼の中ではつながっていないのだろう。
「マーチモンド。君は本日、このまま男子部の面談室で待機するんだ。合同祭の仕事から外し、帰寮まで教師二名をつける」
学院長が新しい紙を彼の前へ置いた。
「明日以降の授業についても、学院の決定が出るまで個別指導とする。ディアモンも本日の仕事から外し、別室で待機させている。ペリドとルビアスには、確認が終わり次第、戻ることを認める」
「ペリドは私たちの邪魔をしました!」
「彼は教師の命令に従い、ディアモンが持ち場を離れるのを止めていた。学院として問題にする行動はない」
ジャスパー様の指が、署名欄の上で止まった。
「私は、殿下をお守りしようとしただけです。それで合同祭から外され、授業まで――」
「先に二度、命令を受けています」
学院長が、以前の文書を二枚並べた。
一枚目は、わたくしへ近づかないこと。二枚目は、シトリン様へ直接話しかけず、合同祭では指定区域を離れないこと。
どちらにも、ジャスパー様の署名がある。
「今回は、この二枚の命令に加えて、現場で教師と学院警備員とアマンド護衛官から止められています。君が従わなかった事実について、学院は正式な調査を開始する」
学院長がわたくしを見る。
「ラピス殿下。先日お話しいただいた件について、改めて御意向を伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ」
以前は、学院内で扱うようお願いした。
ジャスパー様たちはまだ学生で、母の祖国にある学院で起きた不始末だった。両国の間へ持ち出すほどではないと考えたからだ。
けれど、その配慮は、同じことを繰り返すために差し上げた猶予ではない。
「先日のお願いを撤回いたします」
ジャスパー様がこちらを向いた。
「今回の件を、アルヴェイン王宮とロルカ王国へ正式に御報告ください。学院からの記録に加え、わたくしとベリルからも報告書を提出いたします」
「殿下、お待ちください」
包帯を巻いた手が、卓の縁へ触れる。
「私は、本当に殿下のためを思って――」
「御配慮は、一度だけです」
学院長が報告書を入れる封筒を取り出した。
「承知いたしました。事故そのものと、警備経路への侵入を分けて記録し、本日中に王宮へ届けます。ロルカ側への送付についても、殿下の御担当者と確認いたします」
「お願いいたします」
「正式な抗議については、いかがなさいますか」
「報告を受けた父と、こちらの王家の御判断を伺ってから決めます」
わたくし一人で、今この場で決めることではない。
学院長は封筒の表へ宛先を書き、警備責任者へ渡した。警備責任者が見取図と報告書を重ね、封筒へ収めていく。
最後に入れられたのは、避難経路へ引かれた一本の鉛筆の線だった。




