第二十四話 今度は間に合った ―ペリド―
「今は通常時ではありません!」
ジャスパーの声が中央広間へ響いた。昨日の保管室で聞いた言葉が、頭へ戻ってくる。
――何事もなく普通に終われば、持ち場を離れる必要はない。
あのとき、俺は何度も確認した。
――何か起きても教師と警備員の指示を聞け。自分たちで人を増やすな。勝手に動くな。
ジャスパーは、分かっていると答えた。
その直後に、目の前で危険が起きれば指示を待つ時間がない場合もあると続けた。
今が、ジャスパーにとってのその場合なのだ。
「マーチモンド、戻れ!」
学年主任が後ろから追っている。ジャスパーは振り返らず、横の通路へ進んだ。
ディアモンの肩が、俺の手の中で動く。ジャスパーの後を追おうとして、前へ体を傾けた。
「放せ、ペリド!」
「行くな!」
「殿下のところへ行くんだ!」
「だから行くなって言ってる!」
制服の肩を掴んでいた手が外れかける。
ディアモンは剣術の成績もよく、腕力では俺と大きな差がない。正面から引き合えば、このまま止め続けるのは難しい。
肩から袖へ手をずらし、肘の上を両手で掴む。
ディアモンが腕を引くと、制服の布が強く張った。
「今こそ、助けるときだろう!」
「誰をだよ!」
「ラピス殿下に決まっている! 馬が暴れたんだぞ!」
「もう馬はいないだろ!」
正門を見る。
御者と厩務員に引かれた馬は、すでに門の外へ出ていた。倒れた案内板も壁際へ寄せられ、学院使用人が外れた布を片づけている。
中央広間では、警備員が来賓を晩餐会場へ誘導していた。
さっきまで一か所へ集まっていた人々は二つの列に分かれ、少しずつ前へ進んでいる。
何が危険なのか、俺には分からない。
少なくとも、ジャスパーとディアモンが飛び込まなくてはならない場所は、どこにもなかった。
「アマンド護衛官が殿下をお連れした! 警備員もいる!」
「人が多すぎる! あれでは、どこから不審者が入るか分からない!」
「だから先生と護衛官がもう動いてるだろ!」
ディアモンが、空いている手で俺の胸を押した。靴の底が床を滑り、置いた木箱へ踵が当たる。
箱の中で、卓上飾りの金具が鳴った。
「動くなと言われただろ!」
「こんなときまで命令どおり、壁に立っているのか?」
「ああ! 俺たちは、それを命じられたんだ!」
昨日までなら、そこで言葉が止まったかもしれない。
――ジャスパーは、自分で正しいと思ったことをする。
――俺も一緒に行かなければ、危険な役を一人へ押しつけることになる。
――助けてもらった恩があるなら、こんなときこそ支えるべきだ。
何度も、そう考えてきた。
だがジャスパーの前には、アマンド護衛官と学院警備員がいるし、背後からは担当教師が追い、戻れと命じていた。
ここでジャスパーの側へ加わることが、助けになるはずがない。
「ルビアス! ペリドを止めろ!」
ディアモンが、壁際へ声を投げる。
ルビアスは木箱の横に立って両手を下ろし、俺たちとジャスパーを交互に見ている。
「先生から、動くなと言われた」
「ジャスパーが一人で行ったんだぞ!」
「だから先生が追ってるだろ」
ルビアスの靴は、壁際の線から出なかった。
「僕は、ここにいる」
「臆病者が!」
ディアモンが怒鳴る。
ルビアスは唇を結び、役割票の入った上着のポケットを押さえた。
よし、今のルビアスは、動かない。
昨日、ジャスパーの言葉がおかしいと気づいても、本人へ動くなとは言わなかった。それでも今日は、ディアモンの呼びかけへついていかない。
理由が処分を恐れているからでも何でも、ここへ残ること自体は正しいんだ。
「ペリド、放せ!」
ディアモンが腕をひねる。俺は体を横へずらし、彼の肘を自分の胸へ抱え込んだ。
「放さない!」
「お前は、またジャスパーを一人にするのか!」
「一人じゃない! 止める人が何人もいる!」
学年主任がジャスパーへ追いつこうとしている。
横の通路の入口には学院警備員が立ち、その奥へアマンド護衛官が出てきた。
ロルカの近衛らしい男性も、控室の扉の前にいる。
そう、何人もいるんだ。全員、役割を与えられ、何をするかを知っている人たちだ。
そこへ、何の役割もないジャスパーだけが近づいていく。
前回も同じだった。教師がいる。正式な護衛がいる。ラピス殿下御本人も、必要ないとおっしゃっていた。
それでも俺たちは、四人で女子側の通路へ立った。
「アマンド護衛官!」
ジャスパーが通路の前で足を止める。
「殿下の退避経路を確保します。中央広間側は、私が見ます」
「必要ございません」
冷静な、しかし強い声。アマンド護衛官は、学院警備員の一歩後ろにいた。
ジャスパーと話している間も、控室の扉と中央広間へ交互に目を向けている。
「こちらの通路は、すでに確保されております。中央広間も学院警備員が整理しております」
「しかし、警備員は来賓の誘導に手を取られているでしょう」
「それぞれ担当が違います。あなたはお戻りください」
「私なら、殿下の近くで周囲を確認できます」
ジャスパーは、通路の奥を見た。ラピス殿下は控室へ入ったらしく、姿は見えない。
「マーチモンド!」
追いついた学年主任が、ジャスパーの肩へ手を伸ばした。
「今すぐ持ち場へ戻りなさい。これは命令だ!」
「先生、殿下の安全を確認してから戻ります」
「その確認をするのは、お前ではない!」
ジャスパーは一度、教師へ顔を向けた。その間に学院警備員が通路の中央へ立ち、両腕を広げず、体だけで入口を塞ぐ。
「この先へは入れません」
「私は怪しい者ではない。中央学院の生徒です」
「身分を聞いているのではありません。立入を認められていない方は通せません」
「殿下とは以前から面識があります」
「それも関係ありません!」
警備員の返事は、短かった。
ジャスパーの足が右へ動き、通路の入口を塞ぐ警備員の横を抜けようとした。
「マーチモンド令息」
アマンド護衛官が前へ出る。
「これ以上進む場合は、あなたを排除いたします」
「私は殿下をお守りしようとしているだけです」
「あなたがこちらへ来たため、護衛の一人が、殿下ではなくあなたへ対応しております」
「私が加われば、その分、人手が増えます」
「増えておりません」
ジャスパーの前には学院警備員。その斜め後ろに、アマンド護衛官。学年主任も背後まで来ている。
それでもジャスパーは、通路の奥へ進もうとしていた。
「殿下が、御無事か確認するだけです」
「必要ございません」
「すぐに済みます」
「お戻りください」
「失礼します!」
彼女の横を抜けようとして、ジャスパーの右腕が、護衛官の前へ伸びる。
その時、アマンド護衛官の手が、その手首を取った。
次の動きは、一つにしか見えなかった。
護衛官が半歩横へ動き、ジャスパーの腕を引く。
前へ進もうとしていた体が向きを変え、肩が下がった。足元を崩されたジャスパーの体が、石床へ横向きに落ちる。
大きな音が一度した。
「何を――!」
起き上がろうとしたジャスパーの腕が、背中側へ回される。アマンド護衛官は片膝を床へつき、肩と肘を押さえた。
「動かないでください」
「私は、殿下を――」
「拘束してください!」
アマンド護衛官は、ジャスパーの言葉を聞き終える前に学院警備員へ告げた。
警備員がすぐ交代し、ジャスパーの腕を受け取る。
学年主任も反対側へ回った。
「マーチモンド、抵抗するな!」
「先生、私は殿下の安全を確認しようと――」
「護衛官の命令を無視して、退避経路へ入ろうとしたのだ!」
ジャスパーが顔を上げる。
「今は非常時です!」
「もう馬車寄せは片づいている!」
教師の声が、中央広間まで響いた。
実際に、正面玄関の人の流れはもう止まってはいない。
来賓は順番に晩餐会場へ入り、警備員が落ちていた紙や荷物を拾っている。正門の片側も、すでに開かれていた。
アマンド護衛官は立ち上がると、制服の袖を一度引いた。
ジャスパーへ言い返すことも、こちらを見ることもなく、控室へ戻る。
「殿下」
扉を開け、中へ入った。
ロルカの近衛が続き、控室の扉が閉まる。
床に残ったジャスパーは、学院警備員と学年主任に押さえられていた。
「見ただろ、ディアモン」
俺の腕の中で、ディアモンの力が少し緩む。
「殿下の護衛は、最初から足りてたんだ」
「それでも、あんな投げ方をする必要は――」
「あいつが止まらなかったからだろ!」
俺も声を上げた。
ディアモンの腕を掴んでいる手が痛い。指先が制服の布へ食い込み、関節が固まっていた。
向こうから別の教師と警備員が走ってくる。学年主任が、こちらを指した。
「ディアモンも確保しろ! ペリド、そのまま押さえていなさい!」
「はい!」
今度は、すぐに返事が出た。
警備員がディアモンの反対側の腕を取り、俺から引き離す。
教師はルビアスへその場で待つよう命じ、床へ置かれた四つの木箱を確認した。
前回、俺はジャスパーと一緒に女子側の通路へ立った。
やめた方がよいと思いながら、教師が来るまで止められなかった。
今日は、ジャスパーには追いつかなかった。
それでも、ディアモンの腕は、警備員が来るまで俺の手の中にあったんだ。




