第十八話 よい行いとはいったい? ―ラピス―
女子寄宿舎の夕食を知らせる鐘まで、あと半刻ほどあった。
わたくしの部屋では、ベリルが合同祭当日の案内図を卓いっぱいに広げている。
学院から渡されたもので、展示を行う教室、来賓が通る回廊、軽い晩餐を用意する広間などが色分けされていた。わたくしが午前中に立ち寄る展示には赤い印、午後に参加する公開講義には青い印がついている。
「鉱物研究室へ寄る時間が、少し長くありません?」
予定を書き込んだ紙を確かめる。
「ルドック様が御説明なさるのでしょう?」
「ええ」
「でしたら、予定どおりには終わらないかと」
ベリルは赤い印から次の会場まで、指で道をたどった。
「こちらの展示を一つ減らしますか?」
「薬草の標本も見たいのですけれど」
「では、晩餐前の休憩が短くなります」
「それは嫌だわ」
合同祭では夕方に上級生のダンスもある。長い一日になるので、着替えや髪を整える時間まで削りたくはなかった。
「コロンダムへ、説明を短くするよう頼めない?」
「殿下からお伝えになっても、本人にそのつもりがある間だけかと」
「やはり、展示を一つ減らしましょう」
案内図の端に書かれた音楽資料の展示を、鉛筆で小さく消しかけたところで、扉が三度鳴った。
「殿下。アメージュ・フレグラントです。シトリンもおります」
扉の向こうから聞こえた声が、普段より少し大きい。
ベリルが図を畳み、扉を開ける。
先に入ってきたアメージュ様は、肩で息をしていた。その後ろにいるシトリン様は、大学鉱物研究室の名が入った本を三冊抱えている。先ほどまで中央校舎にいたのだろう。
「どうなさったの?」
「ジャスパー様が、またシトリンの道を塞いだんです!」
アメージュ様は扉が閉じるのを待たずに言った。
シトリン様が一番上の本を押さえる。急いで歩いてきたためか、厚い表紙が少しずれていた。
「アメージュ。まず本を置かせて」
「あ、ごめん」
ベリルが卓の上に残っていた紙を片づけ、場所を空けた。
三冊の本が重ねて置かれる。一番下の本は、角がシトリン様の腕へ当たっていたらしく、濃紺の袖に四角い跡がついていた。
「お座りになって。お茶を用意させます」
「夕食前ですから、私は……」
「温かいものを少し飲んだ方がいいわ。走って戻ったのでしょう?」
「いえ、走ってはいません」
シトリン様は椅子へ座る前に、乱れた本の位置を揃えた。
アメージュ様がその隣へ腰を下ろし、両手を膝の上へ置く。すぐに片方が持ち上がり、卓の上を叩きかけたが、王女の部屋だと思い出したらしい。指先だけが木へ触れた。
「でも、かなり急いだでしょう。ジャスパー様が追ってくるかもしれないと思ったんだもの」
「ペリド様が止めてくださいました。それに、女子寄宿舎の入口には先生もいらしたわ」
「その先生が見えたから、やっと戻ったのよ」
わたくしはベリルと顔を見合わせた。
「最初から、お話しください」
ベリルが湯を用意している間に、シトリン様が中央回廊での出来事を話した。
両家の間で婚約が正式に解消されたという知らせが、今日、ジャスパー様のところへ届いた。
その後、中央校舎から女子寄宿舎へ戻ろうとしていたシトリン様を、ジャスパー様が呼び止めた。
「両家の話は終わっていても、自分と私はまだ話していない、と言われました」
「ダンス練習のときにも、お話しになったでしょう?」
「ジャスパーは、あれを話し合いとは考えていないようです」
ベリルがカップへ茶を注ぎ、シトリン様の前へ置く。
アメージュ様の分には、砂糖を一つ添えた。話しながら何度も唇を舐めていたので、喉が渇いていると分かったのだろう。
「シトリンは、もう申し上げることはないと言いました。わたしも、寄宿舎へ戻ろうとしたんです。そうしたら、ジャスパー様が回廊の真ん中へ出てきて、道を塞いだのです」
「はっきり、通してほしいとお伝えになりました?」
「話すことはないと申し上げました」
シトリン様はカップへ両手を添えた。
「アメージュが先生を呼びに行こうとしたら、ジャスパーは必要ないと言って、手を伸ばしました」
「触れられたの?」
「いいえ。その前にペリド様が間へ入りました」
アメージュ様が砂糖を茶へ落とす。匙で混ぜる勢いが強く、カップの内側へ何度も当たった。
「ペリド様がいなかったら、あの人、シトリンの腕でも掴んでいたんじゃないかしら」
「実際に掴まれてはいないわ」
「だからって、平気な話にはならないでしょう!」
匙がもう一度鳴った。
シトリン様は返事をせず、茶を一口飲む。卓へ戻したカップから、まだ細い湯気が上がっていた。
「ペリド様は、何と?」
ベリルが尋ねる。
「婚約はもう終わっている。シトリンが話したくないと言っているのだから聞け、と」
「ジャスパー様は、聞きました?」
「最後まで、自分は私のために話そうとしていると言っていました」
……わたくしのために。
シトリン様のために。
ジャスパー様は、相手の名前だけを入れ替えて、同じ話を続けている。
わたくしの望みを無視したときは、王女を守るためだった。
シトリン様の望みを無視する今度は、長年の婚約を大切にするためだという。
本人の中では、どちらもよい行いなのだろう。
「最後に、シトリンは、もう二度と呼び止めないでほしいとはっきり言いました」
アメージュ様が話を続ける。
「それから寄宿舎へ戻りました。入口の先生も、ジャスパー様たちが回廊にいたことは御覧になっています」
「やり取りも聞こえていたでしょうか」
「全部は分かりません。途中からは、こちらを見ていました」
ベリルは茶器を載せた盆を脇へ寄せ、シトリン様の正面へ座った。
「学院へ報告なさることをお勧めします」
「また、ですか」
シトリン様の指が、カップの取っ手へ移る。
「また、です」
「婚約はもう解消されました。ジャスパーが私へ話したいと思うことまで、学院の問題にするのは……」
「話したいと思うだけなら、問題にはなりません」
ベリルの返事は早かった。
「しかし、話したくない相手の進路を塞ぎ、教師を呼ぼうとする方へ手を伸ばしたのでしょう。マーチモンド令息は、先日の件で、本人から拒絶されても自分の判断を優先することを問題にされています。今回も同じです」
「でも、相手は私です。ラピス殿下ではありません」
「相手が王女でなければ、拒まれても近づいてよいことにはなりません」
ベリルはシトリン様が次に何か言うのを待った。
先に立って教師を呼びに行くことも、報告すると決めることもしない。
シトリン様の手元では、カップの中の茶がわずかに揺れている。
「シトリン様」
今度は、わたくしから声をかけた。
「学院へ報告なさいます?」
「殿下も、そうした方がよいと思われますか」
「わたくしが決めることではありません」
シトリン様は顔を上げた。
「ただ、報告なさらない場合、学院は今日のことを知らないまま、合同祭を迎えます。マーチモンド令息は、御自分がもう一度あなたへ話しかけてもよいと考えたままでしょう」
「それは困ります」
「でしたら、そのことをお伝えになればよいのです。処分を決めるのは学院ですけれど、何があったかを話すかどうかは、シトリン様がお決めになって」
シトリン様は膝の上へ手を戻した。
先ほどまで抱えていた本の重みが残っているのか、片方の袖にはまだ角の跡がついている。
「……報告します」
アメージュ様の肩が下がった。
「では、夕食の前に寮母先生のところへ行きましょう」
「今から?」
「明日まで待つ理由がある?」
「ありませんけれど」
シトリン様は残っていた茶を飲み、椅子から立った。
わたくしも続こうとすると、ベリルが一度こちらを見た。
「殿下も御一緒なさいますか?」
「ええ。今日の件だけなら、わたくしは関係ありません。けれど合同祭での彼の扱いには、関係があります」
「では、最初はシトリン様とアメージュ様からお話しいただきましょう」
「分かっています」
先に口を出して、シトリン様の話まで取るつもりはない。
ベリルは案内図を巻き、机の引き出しへ収めた。




